篠山の山城を探索する-油井中山


油井城址



田松川と天神川の合流部から城址を遠望(20071110)


油井城は多紀郡最南端い位置する城で、城址遺構は田松川と天神川が合流して武庫川になるY字型地点の北側山上にある。油井酒井氏の居城で、戦乱が激しくなった 天文年間(1532〜54)、佐渡守幸貞によって築かれたものと考えられている。
城主の酒井氏は多紀郡西南部に勢力を振るった酒井氏の一族で、一説に相模国大住郡酒井郷からきた藤原秀郷流の酒井氏ともいわれるが、嘉元四年(1306)、六波羅の命で宮田荘に乱入した悪党を追討した酒井孝信の弟政重の後裔とするのが正しいようだ。そもそも酒井氏は犬甘・主殿(当野)・油井保を拠点に勢力を伸ばした鎌倉御家人で、兵衛次郎政親の長男孝信が犬甘・主殿(当野)保を譲られ、油井保を弟の政重が譲られた。そして、孝信の系からは矢代・栗栖野・当野(竹内)に庶子家が分かれて 酒井氏は多紀郡南西部の国人領主へと発展していったのである。
波多野氏が勢力を伸張すると酒井一族はその下風に立つようになり、明智光秀の丹波攻めが始まると油井城に拠ってこれに抵抗した。最後の城主は上野介氏盛(秀正)で、天正六年三月に死去している。氏盛の弟秀香は波多野氏の養子となり、八上城の籠城戦で天正七年三月戦死したという。 いまも、城址の主郭には上野介氏盛の供養塔が祀られている。


城址へ(北曲輪の東南端部) ・ 北曲輪最南端部の土塁 ・ 階段状の曲輪 ・ 登り土塁


主郭切岸と曲輪 ・ 主郭の酒井上野介供養塔 ・ 主郭北端の切岸 ・ 北西尾根の曲輪 ・ 北曲輪と南曲輪を穿つ堀切


南曲輪堀切側の切岸 ・ 曲輪が段状に続く ・ 虎口部の石垣址? ・ 最南端の塹壕状の空堀


かつて主郭に祀られた供養塔への登山道があったようだが、いまは明確な登り道はなく北側から、あるいは南側から 急坂を登るしかない。縄張は南北に長く、尾根を切る堀切で北曲輪と南曲輪に区画されている。 北曲輪は山頂の主郭から南尾根へ階段状に曲輪が築かれ、最南端部の土塁から堀切へと落ちる切岸は十分な高さを 持っている。堀切を越えて続く南曲輪は北端堀切側に土塁を築き、階段状に曲輪を設け、東南先に虎口があり、 下ると石垣を思わせる遺構が確認できる。曲輪最南端部直下の尾根には、塹壕状の横堀が設けられている。また、 北曲輪の北西下に兵站を担ったと思われる腰曲輪が築かれ、東下方にも小曲輪が確認できる。
全体的に摂津三田方面からの敵襲に備えた縄張で、西方の油井西城、北西の波賀野城と連携しながら 酒井党の最前線を守る重責を担っていたようだ。城は天正七年に落城したといい、最期の城主上野介氏盛が死んだのちも 抗戦を続けていたことになるが、氏盛の死とともに落城したのではなかろうか。 ちなみに、主郭に祀られる上野介氏盛の供養塔は、江戸時代、相模国小田原藩に仕えた「酒井伴吉」が寄進 したものである。遠く相模と丹波に隔てられた一族が、交流が保っていたことが知られ興味深いものがある。
・登城:2007年6月10日 → 2009年10月30日