篠山の山城を探索する-垣屋字西ヶ谷


垣屋城址



北方の倉本方面から城址を遠望(20091014)


城址は篠山北西部に位置する西紀地区の垣屋集落にある小さな山城である。東方には鼓峠に発する宮田川が流れ、 宮田川に平行して栗柄から氷上春日方面へ、本郷を経て船井郡に抜ける街道が通じている。また、南方の宮田は 多紀郡西方における物産の集散地として賑わうところであった。垣屋に鎮座する八幡神社は、建久元年(1197)、 平家方の武士として一の谷で戦い敗れた波々伯部孫四郎が創建したといい、 垣屋城はその子孫が築いたものといわれる。
垣屋城は北側の一枝城と八幡神社北東尾根にある西ヶ谷城とがあり、一枝城が主体であったと思われる。 両城の間の谷には波々伯部氏の菩提寺であった安養寺跡があり、波々伯部氏のものという複数の五輪塔や宝篋印塔 が残されている。また、一枝城南側山麓、西ヶ谷城南側の山麓には館址と思われる雛壇状の削平地があり、 一枝城から八幡神社あたりまでの谷は菩提寺・鎮守を包含する形で波々伯部氏の一族・郎党が集住していたようだ。 一枝城と西ヶ谷城は砦と呼ぶのがふさわしい小ぶりな城だが、谷間の居館群・菩提寺などと 一体となって強固な防御体制を形成していたものであろう。
安養寺跡の五輪塔や宝篋印塔



一枝城

北の一枝城へは薄っすらとだが、谷あいの削平地群を経て尾根に続く登り道が確認できる。城址遺構は尾根先にあり、 尾根を切る堀切と曲輪西端に築かれた土塁が見所である。縄張は主郭を中心に北側、南側に帯曲輪を築き、 東尾根には腰曲輪、竪堀が築かれている。城址一帯は猛然たる矢竹の藪で、曲輪や竪堀の確認は難渋を極めるが、 切岸や削平など意外にしっかりと残っている。

山麓の階段状の削平地 ・ 西尾根から曲輪へ ・ 尾根を穿つ堀切 ・ 曲輪西端の土塁

主郭北の帯曲輪 ・ 主郭北東部の腰曲輪 ・ 東端の腰曲輪 ・ 虎口状の遺構



西ヶ谷城

西ヶ谷城は八幡神社北東方の尾根にあり、神社横から堀切状(谷川か?)の道が城址の堀切まで続いている。 一方、神社東側の居館址を思わせる削平地からも尾根にいたる薄い山道がある。城址曲輪は自然地形のままで、 尾根最東端にある西ヶ谷古墳も曲輪として利用されていたようだ。

削平の甘い曲輪 ・ 北東尾根の堀切 ・ 尾根先の西ヶ谷古墳 ・ 西側山麓の削平地


垣屋のある宮田一帯は、かつての近衛家領宮田荘であった。建武の争乱のとき、足利尊氏に味方して活躍した 丹波武士の一人に宮田荘の波々伯部為光がいた。為光は戦功によって尊氏から波々伯部保を賜り、 子孫は淀山城を築いて戦国末期まで勢力を保った。一方、 宮田荘に残った波々伯部一族の基継が応安年間(1370ごろ)に垣屋を根拠地にしたといわれている。
また、宮田荘は丹波守護に任じられた山名氏が守護所を置いたところで、垣屋城の南方の板井周辺には 板井城・西谷城・内場山城など山名氏の城砦群が残っている。山名氏は守護領国制を押し進め、在地勢力である 波々伯部氏は勢力の後退を余技なくされたようだ。しかし、明徳の乱で山名氏が守護職を失うと、 波々伯部氏も宮田の一角で一勢力を保つことができたのであろう。『波々伯部家系』には、文明年間(1470ごろ)に 基継が福徳貴寺に田地を寄進したとの記述がみえている。 しかし、さきの基継の存在を考えると、宮田波々伯部氏の来歴に関しては疑問点が多い。
・登城:2009年10月14日 → 21日(一枝城)