篠山の山城を探索する-中村字三の宮


山上(中村)城址



大芋小学校方面より城址を見る(20091028)


篠山川と藤坂川が合流する中集落にある大芋小学校北方の山にあり、山麓の館址、南尾根の出城址、 山上の詰めの城址とで構成されている。山上からは西方の藤坂川流域、南方の福井方面が望め、 福住から細工所を経て園部に通じる街道を扼する地を押えている。城主は山上氏と伝えられ、 戦国時代の永禄年間(1558〜70)、山上左衛門尉秀本が築いたものという。
山上氏は上野国から出た藤原秀郷流大胡氏の一族山上秀盛の後裔とも、近江国神崎郡山上郷の出身で 佐々木氏に仕えた武士ともいわれ、 南北朝時代の末期に丹波に移住してきたと考えられている。 中村に土着した山上氏は大芋の有力国人領主大芋氏と関係を結び、福井城主森本氏らとともに 大芋党の一員であったようだ。そして、八上城主の波多野氏に属し、元亀元年(1570)二月、 細見市山合戦に功を挙げた家臣山ア兵衛に感状を与えている。波多野氏が滅亡すると明智光秀に属したが、 山アの合戦で光秀が滅亡すると中村に蟄居し、天正十二年(1584)、 館内に上品山蓮台寺を創建したと伝えられている。 秀本には助之丞秀勝と喜平衛秀家の男子があり、朝鮮の役に出征したという。


館址と南尾根出曲輪

館址と上品山蓮華寺観音堂 ・ 三ノ宮古墳 ・ 南尾根出曲輪北の堀切 ・ 東竪堀

城址附近の岩石 ・ 南腰曲輪 ・ 主郭を区切る土塁 ・ 岩石を利用した腰曲輪

大芋小学校北方すぐの山麓に二段に削平された館址があり、上の段に秀本が築いたという上品山蓮台寺 名残の観音堂が立っている。城址へは観音堂の石柱正面の獣避けの柵から分け入り、まず南尾根の出城を目指す。 城址北方の三ノ宮古墳群から尾根を南下すると堀切があらわれる。出城は主郭を中心に東側と南側に腰曲輪を設け 西方に山裾まで落ちる竪堀、その左側にも竪堀が掘られている。主郭北側には高土塁、西側には登り土塁が設けられ、 北側は堀切と土塁とが相俟って堅固な作りとなっている。


山上の詰め城址

詰めの城手前の岩石群 ・ 主郭南腰曲輪 ・ 主郭を区画する土塁 ・ 岩石を利用した腰曲輪

石垣を思わせる自然の岩石 ・ 北尾根の堀切を見下ろす ・ 堀切を横から ・ 堀切側から主郭を見上げる


山上の詰めの城は、自然の岩石を利用した縄張で、主郭を中心に周囲を数段の腰曲輪がまいている。 北側尾根部分は塹壕状の曲輪(崩落の址か?)を越えて、その先に堀切が二重に切られている。 詰めの城一帯は雑木に覆われていて展望はまったくないが、 往時は藤坂川を隔てた西方の山上には大芋党の中核となる豊林城址、そこから東南に伸びる尾根先には森本氏の拠った 福井城址が見えていた。 『丹波志』に収められた山田氏系図を見ると、山上氏、森本氏らが姻戚関係にあったことが 記されており、山上氏は川向こうの森本氏と一体化して外敵に備える体制をとっていたと考えられる。
山上城址は「二城一郭」の構造のようにも見えるが、出城と詰めの城との間をつなぐ遺構が存在しない。 出城を三の丸古墳群のある尾根に築き、詰めの城へ連なる山腹に削平地を階段状に築けば、山全体にわたる 梯郭式城郭となったはずだ。山上氏にすれば山麓の館と南尾根の出城を第一の防御とし、そこが破られれば山上の 詰めの城で防御する「二段式詰め城」という考えを持って城を築いたようだ。なかなかユニークな発想だが、 館、出城、詰めの城の連携が少なからず悪すぎる感もなくはない。
明智光秀の丹波攻めに際して山上氏ら大芋党は、豊林城を中核に山上城・福井城を出城とする防御体制で 明智軍と対したと考えられる。細工所の荒木城における攻防戦では、 荒木氏に援軍を送ったのではなかろうか。そして、猛将荒木氏が激戦ののちに降服したとき、 大芋党の面々も明智方に降るしかなかっただろう。 そんなことを考えながら城址を歩くと、丹波戦国史の断片が土塁のカゲ、堀切の向うに落ちているように思われてくる。
・登城:2009年10月05日
・図は『戦国・織豊期城郭論―丹波国八上城遺跡群に関する総合研究』掲載図をベースに作成しました。