篠山の山城を探索する-福井字阪本


福井城址



福井交差点方向から城址を遠望(20091028)


福井城は森本城とも呼ばれ、篠山の東方を走る国道173号線の福井交差点西方を流れる篠山川のさらに西方に 突き出ている尾根先にあった。資料によれば、戦国時代の永禄年間(1558〜70)に森本筑前守秀弘が築いたものという。 城のある福井一帯は大芋荘とよばれた荘園で、中世、国人領主大芋氏が勢力を伸ばしたところであった。 大芋氏は豊林寺城を築き、庄内の地侍・名主と姻戚関係を結び大芋党ともいうべき同族武士団を結成しており、 森本氏や中村城の山上氏らもその一員であった。



山麓の土塁と堀址 ・ 城址碑 ・ 山麓の井戸址 ・ 堀址遺構?



南端曲輪と切岸 ・ 主郭部虎口 ・ 主郭と櫓台 ・ 主郭と後方尾根



主郭北の堀切 ・ 土橋を伴った堀切 ・ 堀切は二重 ・ 山麓の古瓦に花菱紋



森本氏ら大芋党は八上城主波多野氏に属して活躍、のちに森本氏は豊林寺城主でもあったことから、大芋氏に代わって大芋党の中心的存在となったようだ。波多野氏が滅亡したのちも生き残り、秀弘の嫡男秀光は小田原の陣において戦死、弟の秀貞は朝鮮の役に出征したのちに武士を捨て帰農した。 いまも、城址山麓に子孫の家があり、土塁や堀跡、井戸跡などが残っている。
子孫宅の後方に城址碑が建立され、城址へはその側より山道が続いている。城址は小ぶりなものだが、南側には自然の岩を利用した腰曲輪が築かれ、主郭の南端には虎口が設けられている。主郭は南北に長く、中ほどに段構え北端に櫓台を思わせる土塁が盛り上がりを見せている。主郭北側は崖状態で、土橋を伴った大堀切が切られ、その北方にも土橋付の堀切が切られている。見事な二重の堀切で、城址最大の見所となっている。さらに、その北方にも堀切があり、尾根を登っていくと大芋党の本城である豊林寺城へと続いていく。
篠山川を自然の濠として、川向こうの中村城、城址後方の豊林寺城と連携して一帯に睨みを利かしていたことがよく分かる。森本氏はこの城を拠点として丹波の乱世を生き抜き、豊臣政権下では小田原に出陣、さらには遠く朝鮮にまで出征していったのであった。下山後、山麓にあった古瓦を見ると「花菱」紋が見えたが、ご子孫の方に聞くと家紋は「結い柴」とのことであった。福井城址は山城遺構と山麓の居館址とが、往時のままセットで残るところとして貴重である。
・登城:2009年9月27日
・城址探索に際しては、まずご子孫の方にご挨拶してから登ることをお願いしたい。