豊林寺城の址は、篠山市街東方の福井集落にある古刹玄渓山豊林寺後方にある標高527メートルの山上にある。かつて福井一帯は櫛石窓神社を本家とする大芋(おぐも)荘で、大芋は大雲とも書かれる。中世、絵所土佐家が預家として実質的な領主であったが、南北朝のころより久下氏などが押妨し室町幕府は土佐行光に変換するように命じている。その後も大芋荘は武家の押妨にさらされたが、戦国時代まで土佐家領として存続している。
この大芋荘から起こった国人領主が大芋氏で、丹波守護細川氏の被官として勢力を伸ばしていった。応仁の乱にも細川氏に属して出陣したようで、乱後に成った家紋集『見聞諸家紋』には大芋氏もみえ紋は「並び雁に菊水」が記されている。大芋氏は荘内の地侍や名主などと姻戚関係を結んで的同族武士団(党)を結成、豊林寺の寺庵とも深い関係があったようだ。そして、大芋党の拠点となったのが豊林寺城で、室町時代のはじめ応永年間(1394〜1428)に大芋式部丞が築いたと伝えられている。代々大芋氏は細川氏に仕え、戦国時代の兵庫助慶氏は細川高国から所領安堵状をもらっている。
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