篠山の山城を探索する-貝田字浦山


貝田城址



貝田集落側から城址を見る


城址は篠山市街の東方貝田集落の北西尾根上にあり、東南の山麓には亀井山蔵六寺がある。すぐ北方の細工所には 「丹波鬼」の異名をとった荒木山城守の本城である細工所城があり、西方には栃梨城、北西には東本荘市谷城・ 口県守館があり、一帯は荒木氏が支配したところであった。貝田城は細工所城の南を固める城として築かれ、 栃梨城と呼応しながら西方直下を通る街道を扼していた。



城址への急坂 ・ 西の土塁と堀切 ・ 堀切と切岸 ・ 北西腰曲輪と主郭



主郭切岸 ・ 北の帯曲輪 ・ 南帯曲輪と切岸  ・ 主郭北の切岸と武者走り



東端曲輪と主郭 ・ 東端堀切と土橋 ・ 堀切と東尾根削平地 ・ 東尾根から城址を見る


まことに小さな城だが、東西に長い主郭を中核に北側と南側に階段状に腰曲輪を築き、 主郭の西端直下には土塁を伴った大堀切を穿ち、東方の尾根は土橋付きの堀切を切っている。 東の堀切の東側は自然地形と思われる緩やかな平地で、 山麓から続く切り通し道でその先の尾根とが隔てらている。切り通し道から北側に出た山麓には階段状の平地があり、 居館祉か兵站基地となっていたものであろう。 切り通し道が往時のものか否かの判断は難しいが、おそらく城址への大手になっていたように思われる。 当然のことながら西側の防御を意識した縄張で、切岸、堀切、腰曲輪群の保存状態は悪くなく、 見るべきところは少なくない城址だ。
天正五年(1577)、荒木山城守は明智の軍勢を果敢に迎え撃ち、激戦のすえに降服した。 壮絶な戦闘の様子は「井串極楽、細工所地獄、塩岡(しょうか)岩ヶ鼻立ち地獄」の俗謡によって、 いまに伝えられている。貝田城でも細工所城の前衛として、明智軍との間で激戦が展開されたのであろうか。
・登城:2009年9月21日