城址から八上城址を遠望(手前は四季山)
谷山城は旧丹南町谷山集落の東南の山上に築かれた城で、『丹波志』によれば波多野氏の重臣平林大膳秀衛が
拠った城という。平林大膳に関しての詳細は不明だが、波多野氏の先祖藤原経基の兄という平林忠義の子孫で
波多野氏とともに丹波に入った武士だといわれる。
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竪堀を思わせる登り道 ・ 最北端の曲輪と切岸 ・ 竪堀 ・ 主郭の切岸 ・ 井戸跡か?
主郭北側帯曲輪 ・ 主郭西帯土塁 ・ 主郭最西端の曲輪 ・ 主郭西端直下の堀切
西尾根の土橋を伴う堀切 ・ 東尾根の曲輪 ・ 東尾根曲輪の切岸 ・ 東端の曲輪を見上げる
城址は標高401メートルの山上にあり、高所の主郭を中核に帯曲輪を配し、北方の尾根には段状の帯曲輪群を設け
曲輪の接点には竪堀を切っている。槙ヶ峰へ続く西方の尾根には
土橋を伴った堀切が三ヶ所さらに、東方の尾根には階段状に曲輪を築き、要所に竪堀を落としている。東山麓には
平林の坪と呼ばれるところがあり、そこに平林氏の常の居館があったようだ。山上の城址一帯は雑木に覆われて
展望は利かないが
木の間越しに東の正面に八上城址が見え、篠山平野が一望できる。また、南側には母子寺を経て摂津に抜ける街道と、
古市から不来坂をい越えて播磨に通じる街道が通り、八上城の西方を守る重要な城であったことが理解できる。
大手は北側山麓の谷山から通じていたようで、山腹まで登ると堀切状の道が城址まで続いている。城址の規模も
なかなか立派なもので、保存状態も悪くない。しかし、荒廃の色は深く、
山城としての整備はともかくとして、山そのものが顧みられているとは思えない状況
である。谷山集落で会った方の
お話では「子供のころは、よく登り遊び場にしていた」「最近まで山仕事のための道があったがいまはなくなった」
とのことであった。
名もない城址を保存することは難しいことは承知しているし、山仕事が労の多いわりに得るところが少ないことも
知っているつもりだ。昨今のクマ出没騒動ではないが、人と野生動物が共生し、
それぞれが生活する環境を守るため、なんとか山を保全する
方法は講じられないものだろうか。その余沢として、山城が後世に伝えられるように整備されることを願ってやまない。
・登城:2009年9月7日
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