宮の前から畑市城址を遠望
畑市城は、淀山城を本城とした波々伯部氏一族の嵐四郎光尚が築いた城といわれる。
波々伯部氏は淀山城、東山城、南山城、そして畑市城を擁して篠山東部に勢力を築き、
戦国時代には波多野氏の有力武将として活躍、明智光秀の丹波攻略に敗れて没落した。
城址は篠山の東方にどっしりとした山容を見せる弥十郎ヶ岳から北西に伸びる尾根上にあり、
西方には畑市から曽地口に通じる古道が通じていた。さらに、その西方には曽地口から
摂津に通じる街道、北方には山陰街道が通じており、畑市城は波々伯部氏一族の
西方を固める重要拠点であった。
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上宿城址からの尾根道 ・ 城址北西の切岸 ・ 土橋と虎口
北側帯曲輪 ・ 主郭へ口 ・ 主郭東方の切岸
南尾根の曲輪 ・ 南尾根西側に残る竪堀? ・ 畑市から見た城址
城址は尾根高所に主郭を置き、北西、東、南の尾根にそれぞれ曲輪を設け、北側は
武者走りを思わせる長い帯曲輪が捲いている。城址の北西尾根に土橋を伴った片堀切が切られ、
そこから切岸を経て城址へと至る。おそらく、城址北西端が虎口であったようだが、全体として
削平が悪く、縄張としては大味な感を否めない。城というよりは、波々伯部氏勢力圏の
西方に睨みを利かせる砦的な存在ではなかったろうか。ところで、
畑市城から北西に連なる尾根高所には八上城包囲網東口の要の任を有した上宿城址があり、
両城の位置関係は目と鼻の先であり、同時に存在したとは考えにくい。波々伯部氏は明智光秀の
丹波攻めに抵抗したが、明智方の攻勢に押され、ついには城を捨てて八上城に籠城した。
その後、光秀は畑市城よりもさらに八上城に近い北西尾根に新たに上宿城を築き、波多野方を
締め上げていった。畑市城と上宿城の僅かな立地の差は、それぞれの城がもった戦略的意義を
よく示したものといえそうだ。
余談ながら、弥十郎ヶ岳の尾根にはもう一つ波々伯部氏の築いた平内丸と呼ばれる城址がある。
この畑市城と平内丸を同じ城とするものもあるが、平内丸は弥十郎ヶ岳山上の西方すぐのところにあり
両城はまったく別の場所に存在している。
・登城:2009年8月30日
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