下館と詰めの城の間に切られた堀切
尾根先の下館址(20090104) - 北曲輪・段状の曲輪・主郭虎口との祠・主郭北側の腰曲輪 ・ 尾根に切られた堀切
尾根出曲輪北端の土橋 ・ 主曲輪群西端の切岸 ・ 竪堀 ・ 帯曲輪が続く ・ 見事な切岸
石垣跡か? ・ 主郭と腰曲輪 ・ 東端の曲輪と切岸 ・ 南尾根の曲輪群 ・ 腰曲輪
大野城と対した矢代城は山上にある詰めの城と、山麓の丘陵に築かれた館跡がある。館跡と大野城とは、
まさに目と鼻の先の位置にある。矢代城は土豪国松氏が築いたことから国松城ともよばれる。国松氏は波多野氏に属して明智光秀の丹波攻めに抗したが、波多野氏滅亡後は帰農したといわれる。館跡には西方の矢代川から入り、北方の大堀切を経て、小祠のある主郭へと道が続いている。主郭から南方を見ると目の前に大野城が見え、明智勢と対峙した国松氏の緊張感が彷彿としてくる。館跡は小ぶりなものだが、主郭を中心に帯曲輪が取り巻き、いまも明確に縄張りが確認できる。
館北側に切られた堀切を隔てた尾根を登ると出曲輪があらわれ、尾根には堀切、土橋が設けられている。さらに登っていくと、南端曲輪の切岸に到着。そこから山上の主郭に向かって小曲輪が連続し、ところどころに竪堀、堀切が切られている。山上の主郭部は結構な広さで、腰曲輪が設けられ、さらに東方の尾根には堀切が切られている。主郭部から南に続く尾根にも削平は甘いが、曲輪群が築かれている。全体的に細切れに築かれた帯状の曲輪群と竪堀群で構成されているのが特長的だ。縄張りは山上一帯にめぐらされ、城域は相当に広い。
城址への登り道は途中が丹波お馴染みの獣除けの柵に遮られ、尾根の出曲輪から先は道も途絶えている。しかし、まず迷うことなく城址にたどり着くことがはできる。城址には石垣か?と思わせるところもあり、竪堀、堀切、曲輪群など城址としての遺構も容易に確認できる。小さな土豪の城としては規模もあり、尾根先の下館、向かいの大野城とセットで探索することをお奨めしたい。
山麓の登り口近くに祀られた古い五輪塔
・登城:2009年6月28日
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