篠山の山城を探索する-大沢上山


禄庄城址



篠山口東方から城址を見る(2008年11月30日)



大沢八幡宮 ・ 城址への道標 ・ 城址へ ・ 腰曲輪



主郭 ・ 石垣を思わせる石積み ・ 曲輪が段状に連なる ・ 大沢城址への道


 
初田酒井氏の家老であった杉本与右衛門、石野久兵衛が拠った城跡。主郭を取巻くように、帯状の曲輪が同心円状に築かれた特異な縄張りで、輪郭式山城と呼ばれている。禄庄城は尾根つづきの奥谷山山上にある大沢城の、 出城的砦として築かれたもので、珍しい縄張りだが規模は小さなものである。
大沢ロマンの森の一角で、山麓の大沢八幡神社から遊歩道が整備され、神社から登って最初のピークが城址になる。 山道はなかなかの急坂で、小さな出曲輪を経て最初の帯曲輪に到着する。曲輪はそれぞれ小さなもので、当時、 どれだけの機能を果たしたものか首をひねらされる。山上の主郭は直径16メートルほどの円形で、樹木がなければ東方の 眼下には篠山口駅が望めるところだ。大手と思われるあたりには、当時のものかと思われる石垣状の 石積みが残っている。
天正六年、明智光秀の攻撃を受けた初田酒井勘四郎と一党は大沢城・禄庄城に拠ると、八上城、高仙寺山城などに急を 知らせ明智勢を迎え撃った。しかし、多勢に無勢、ついに明智方の降伏勧告を受け入れた酒井勘四郎は杉本・石野らを 明智の陣に使者として送るとみずからは高仙寺山城へと奔った。その後、八上城が落ち波多野氏が滅亡すると勘四郎は 明智光秀に仕えたが、山崎の合戦で戦死した。禄庄城主杉本与右衛門の子孫は大沢組の大庄屋を勤めたようで、 江戸時代、大沢一帯の沼沢地干拓に成功している。いまも、大沢の集落には杉本家があるが、 与右衛門の後裔にあたる家と思われる。
・登城:2008年7月13日