東方の西野々砦方向から城址を見る
山麓の居館祉を地形 ・ 主郭南西部の虎口 ・ 虎口の石垣跡? ・ 主郭北端の櫓台?
主郭北側の堀切 ・ 主郭北西部の土塁 ・ 主郭は思った以上に広い ・ 南西尾根曲輪の切岸
北尾根の曲輪 ・ 城址北端の堀切 ・ 北側から主郭虎口を見る
元亀年間(1570〜73)、綱重は福住からさらに京都寄りの地安口(はだかす)に籾井川を天然の濠として山裾に日常生活をする居館を築き、東側山上に合戦に備える詰めの城として安口城を築いた。
そして、本城を嫡男綱利(通説では教業)に譲ると、次男綱正を連れて移り住んだのである。
安口城址へは居館跡後方にある墓地を横目に谷に分け入ると、炭焼き小屋の跡とおぼしき石組みがあらわれ、その右手斜面にほとんど雑草に消え入りそうな細い登り道が確認できる。落ち葉を踏みしめながら山上に続く細道を二十分ほど登ると虎口で、一面に杉が植林された主郭へとたどりつく。主郭は思った以上に広く、南西尾根に築かれた数段の曲輪もそれぞれ十分な広さを持っている。木立で遮られているが主郭、各曲輪から東方の天引峠を一望でき、ほぼ正面に見える西野々砦と併せて、なかなかの要害であったことが理解できる。さらに安口城西方の山上には安口砦が設けられ、その西方には本城の安田城が控えている。
主郭の後方には大堀切が穿たれ、その北方には二段の曲輪、さらにその北方に数条の堀切が穿たれている。縄張りを見る限り、安口城は北方の尾根からの攻撃を意識した作りになっている。天引峠方面を睨む安口城の南面は、籾井川と山裾を取り巻く崖によって十分な防衛力があった。実際、籾井川を越えて崖に取り付くには、西方の安口砦からの攻撃もあり、相当の犠牲を強いられることは容易に想像できる。
明智光秀の丹波侵攻に際しても籾井一族は果敢に抵抗、、天正四年(1576)十一月、十八日間にわたる激戦のすえに明智軍を船井郡に押し返している。しかし、翌天正五年十月、明智の大軍の猛攻撃によって安口城は落城、以後、歴史の表舞台に登場することはなかった。安口城は小さな城だが、丹波戦国史を刻む
城跡である。
・登城:2009年1月17日
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