篠山の山城を探索する-般若寺


般若寺城址



正覚寺と後方の般若寺城址(2008年4月27日)



正覚寺山門 ・ 東曲輪に取付部く ・ 主郭の切岸 ・ 西曲輪とを隔つ堀切



主郭北側の腰曲輪 ・ 東尾根先端の曲輪 ・ 正覚寺ウラの谷から西曲輪を見上げる



中腹から本堂越しに八上城址を遠望 ・ 八上城址と般若寺城址(20080215) ・ 東方から城址を遠望(20080506)


 
天正三年、織田信長から丹波攻めを命じられた明智光秀は、波多野氏、赤井氏らの抵抗にあって悪戦苦闘を重ねた。丹波武士らのの抵抗を一つ一つ潰していった光秀は、天正六年、ついに八上城を包囲した。その最前線の本営となったのが、篠山川を隔てて八上城を正面に見る般若寺であった。そして、一年間の包囲戦の末に波多野氏は降伏、八上城は陥落した。降伏した波多野秀治と明智光秀が対面したのも般若寺であったという。 その後、秀治は神尾山城を経て安土に連れて行かれたが、信長は秀治を許さず安土城下の慈恩寺において処刑した。
そもそも般若寺は、秀治が祈願寺として八上城の鬼門にあたる地に建立したもので大松山般若寺と号した。天正の兵乱で廃絶したのち、江戸時代になって浄土宗の蓮法山正覚寺として再建され現在に至った。正覚寺の本堂あたりが明智軍の本陣で、背後の山上に城塞が築かれていた。城址へは東山麓から分け入り、うっすらと山上に続く道をたどると十数分で東山上の主郭に到着する。そこから西方へ曲輪がつづき、堀切を隔てた西側の山上にも曲輪が築かれている。 また、正覚寺を包むようにはり出した東西の尾根にもそれぞれ曲輪が築かれていた。
般若寺城址からは八上城址が真っ正面に見えるものと期待していたが、山上は雑木が生い茂った薮状態で視界はまったく効かない。西側の曲輪とを隔てる堀切まではなんとか移動できたが、そこから先の探索はあきらめざるを得なかった。主郭に戻ると何やら廃棄物が、見るとアンテナ、電化製品、電柱?などが捨てられている。薮化の進行はともかくとして、 ゴミ捨て場と化しているのはいかがなものか!と腹が立つより哀しくなった。
・登城:2009年2月7日

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53次・般若寺城跡