篠山の山城を探索する-真南条上


高山(真南条上)城址



国道を隔てた北方山麓にある円心寺から城山を見る



西尾根の腰曲輪 ・ 虎口 ・ 竪堀と切岸



西曲輪後方の竪堀 ・ 竪堀道 ・ 鳥居と堀切、土橋 ・ 崩落した稲荷神社と主郭切岸



主郭と石碑 ・ 主郭と西方の絶壁 ・ 登り口に下山


 
デカンショ街道と称される国道372号線を八上下交差点から姫路方面にしばらく走ると、 左手に龍蔵寺のカンバンがあらわれる。そこが真南条上集落で、高山城址は龍蔵寺方面に続く道の右手 山上にある。城址は山上の主郭と西尾根先の出曲輪、その中間にある自然地形のままと思われる 曲輪で構成されている。
西尾根先の曲輪には虎口、腰曲輪が築かれ、東にのびる尾根に竪堀が切られている。中間の曲輪に続く 竪堀状の道を登り、尾根をたどって行くと主郭にいたる。主郭の北直下には矢竹が繁り、 鳥居に挟まれた堀切と土橋を渡ると崩れ落ちた稲荷が祀られている。 そこから急坂を登りきると主郭で、西方部には腰曲輪が築かれ意外な広さである。また、主郭の四方は急峻な崖であり、 なかなかの要害である。 八上城西方の守備を担う城砦群の一つで、『細川両家記』に、弘治三年(1557)、 三好軍が龍蔵寺城を攻め落としたとあるのは、この城をさしたものと考えられている。 コンパクトにまとまった城址で、山道も明確、主郭の手入れも行き届いている。 尾根の曲輪、虎口、堀切、主郭などの遺構を探りながら、ささやかな里山散策が楽しめるところでもある。
主郭の一角に建立された石碑を見ると、城址は高山城と呼ばれ、 波多野氏の家臣河村紀伊守嘉隆が拠っていた。天正七年(1579)、 明智光秀の攻撃を受けて落城した八上城とともに高山城も落ちたとある。 その後、小林株講中が嘉隆を河村大明神として崇め、主郭に祠を祀り毎年例祭を行ってきた。 しかし、次第に祠も朽ち、核家族化・高齢化が進むにつれ祭祀も困難となり、 ついには石碑を建てて祠に代えたのだという。 落城後の河村氏のこと、河村氏と小林氏との関係も分からないが、落城以来、三百余年に わたって祭祀が続けられてきたことはまことに尊い話である。
・登城:2009年6月17日