南北朝時代の後期、丹波守護職に山名氏清が任じられた。氏清は京都と山陰を結ぶ交通の要衝である宮田の北方
板井に城を築き、丹波支配の拠点とした。その後、和泉守護に任じられた氏清は堺へ移り、長男宮田左馬介時清と、
二男七郎満氏に宮田城を譲った。その後、山名氏は内訌に揺れ、明徳の乱を引き起こした氏清は京の戦いで戦死、
時清らは丹波に奔り奥畑城に拠ったが再起はならず紀伊国へ落ちていった。その後、大内義弘が応永の乱を起こすと、
時清らは義弘に味方して丹波に兵を挙げたが敗れて没落した。戦国時代、板井城には山名小太郎が拠り、
八上城主波多野氏に属していた。やがて、織田信長の「丹波攻略」が始まると、波多野氏とともに抵抗したが、
天正六年(1578)、明智光秀の攻撃を受けた板井城は落ち、山名氏は没落した。
城址遺構は城山と呼ばれる山上にあり、北方に垣屋から栗柄峠、鼓峠からに通じる街道、
北西方向には佐仲峠を越えて氷上へと通じる街道を眼下に見下ろす格好の地を占めている。
北方を流れる小坂川が自然の濠となり、かつての城山東方は一面の湿地帯であったといい、
いまからは想像ができない自然の要害であったようだ。とはいえ、
丹波守護職に任じた山名氏の居城祉と思えばその小ささに驚かされるが、おそらく
山城というものではなく居館として築かれたものと考えられる。
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現在残る城址は、戦国時代に山名氏の後裔が拠ったもので、西方の内場山城、東方の西谷城、北方の小坂城
などと連携した防御体制の中核に位置している。
城址へは文安二年(1445)に創建されたという天満神社の鳥居前より山沿いに沿った道があり、
その道と平行して堀址と思われる遺構が確認できる。
しばらく歩くと小さな祠を祀った登り口があらわれ、そのまま登ると第一の虎口へと通じている。
第一の虎口の左右には横矢掛があり、さらに登っていくと第二の虎口にいたる。
第二の虎口で縄張は北と南に区画され、
北側が主体で北端の最高所に見張り台を兼ねた曲輪が築かれ、
その南の広い曲輪が主郭で西側に北曲輪と連絡する登り土塁が築かれている。
北端は崖状で中腹に堀切が切られ、その先は天満神社を経て小坂川となる。
南側は広い曲輪が一段で、その南端に櫓台を兼ねた土塁が築かれ、その先は二重の大堀切が切られている。
決して大きな城跡ではないが、虎口、曲輪の切岸、土塁、堀切など遺構はよく残っている。
城址を覆う潅木さえ厭わなければ見所の多い城だ。とくに、二重の堀切は
必見である。【板井城縄張図】
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宮田川方面より城山を見る・天満神社と神社鳥居前の堀跡を思わせる溝・不思議な人形群・城址最初の曲輪
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曲輪の土塁・主郭北方の土塁・主郭の小祠・主郭と二の郭・主郭に続く土塁道
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主郭と二の郭と土塁・竪堀、堀切が随所に設けられている・自然の濠をなす小坂川方面から主郭を見る
・縄張図は『戦国・織豊期城郭論―丹波国八上城遺跡群に関する総合研究』より転載しました。
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