篠山の歴史・見処を訪ねる-大山上


神田神社



神社本殿と鳥居


朝霧の大山荘(左:黒頭峰・右:夏栗山) ・二宮に渡御する鳳輦  ・二宮での神事  ・鳳輦の還輿


西尾家住宅と行列 ・鳳輦の鳳 ・神紋の稲丸


篠山市から丹波市に通じる国道176号線の大山上バス停西側の丘上に鎮座し、大巳貴神を祀る延喜式内社で「こうだ」と読む。伝によれば大宝二年(702)九月九日、大山谷の石角(住)口に創祀されたという古社である。神田神社が鎮座する大山の里は、弘法大師空海が開基した京都東寺の荘園であったところで、空海の遺産である綜芸種智院を売却した代金で購入されたというところだ。承和十二年(845)、大山荘が立荘したとき、神社は大山荘の総鎮守社として崇められ一宮神社と称された。
白河天皇の承保元年(1074)、大嘗祭において神田郷で抜穂式が行われ、それを祝って大江匡房が「千早振る 神田の里の 稲なれば 月日と共に 久しかるべし」と詠じたことが『千載集』に見えている。かくして、神田神社は一宮神田大明神と称せられて、皇室はもとより公家・武家から篤い崇敬が寄せられた。その後、平安時代末期の応保二年(1162)十二月、参詣に便利なようにと現在地に遷座されたという。
中世、鎌倉時代の仁治二年(1241)に「一二宮両社御神楽料」が、室町時代の応永二十三年(1416)に「九月九日朔幣」が行われたことが『東寺百合文書』にあり、さらに御神楽・田楽などの費用、お供え物やお礼、神社の維持費などを東寺が負担していたことが知られている。また、室町幕府を開いた足利尊氏が武運長久を祈って加護大般若経を寄進、応永元年(1394)には征夷大将軍に任じられた足利義持が同六年に管領細川満元をして御教書を奉呈させ武運長久を祈ったという。神田神社は大山荘のみならず、中央においても重視されていたことがうかがわれる。ところが、戦国時代末期の天正六年八月、明智光秀が大山城の中沢氏を攻めたとき、その兵火にかかり殿宇・古記録のことごとくが焼失してしまった。
その後、ほどなくして神社は再建され、江戸時代になると篠山藩主の祈願所として崇敬を受けた。延宝八年(1680)、明和二年(1742)に修理が加えられ、寛保二年(1742)にはときの藩主松平信岑に尽力によって正一位を授けられ、以後、正一位神田大明神と称することになった。古記録によれば、例祭は九月九日に行われ、毎年白鷺が境内に飛来したという。現在は十月の十日前後の休日に二宮神社へ鳳輦の渡御が行われている。祭礼としては簡素なものだが、神社を出て二宮へと渡る行列はなかなか雅なものである。
神社鳥居前の道はかつての旧山陰街道で、丹波から但馬に通じる街道として重要視され、多くの旅人が往来した。いまも街道の面影を残し、鳥居前の旧家西尾家の住宅と神社の森とが調和して快い風景を作り出している。余談ながら西尾家住宅は江戸時代の俳人西尾武陵の生家としても知られる家で、登録有形文化財にも指定されている。古い歴史を有する神田神社、西尾家住宅などを訪ねながら、古代以来の歴史を刻んだ大山一帯を歩いてみてはいかがだろうか。

・神田神社と西尾家住宅の間に残る旧山陰道
撮影:2009年10月10/11日

→西尾家住宅