南北朝時代はじめの延元元年(1336)に畑能道が築城してのち、畑氏代々の居城であった。戦国時代、
信長の丹波攻めが起ると波多野氏に属して抗戦、八百里城は落ち畑宗家は没落したという。とはいえ、
城址を訪ね周辺の住宅の表札をみると畑姓の多さに驚かされる。
2006年の秋にはじめて訪れたときは「松茸」の季節であり、「瓜田に履をいれず」ともあるように登城は断念した。ついで、2007年の春に再訪したときは登城の準備不足であったことから、これまた断念。そして、附近の地図と縄張り図を入手して、六月、ついに登城とあいなった。 |
麓に鎮座する社の横に立てられた朱の鳥居をくぐり抜け、山道を少し歩き、道ともいえない道をがむしゃらに登ると、大きな石組みと朽ちた社に出た。あとで調べると、古墳の石室が露呈したところで、社は稲荷神社だという。そこから、尾根伝いに登ると八百里城址に出るが、雑木が生い茂り、これまた骨の折れる道行きとなった。城址には曲輪跡が続き、矢竹がいまに生い茂り、北方には大きな壕切が確認でき、縄張りの意外な広さに驚かされた。 |
城址から社まで降りてふりかえると、鎧を着込み、武器を持って城に籠った戦国武士の「ど根性」に圧倒される。社から南を望むと波多野氏が拠った八上城が見える。以前に登城した細工所城、淀山城も含め、八上城を中心としたネットワークが構築されていたことが実感できる。八百里城をあとに、畑氏一族が屋敷とした土居の内を訪れる。2006年に訪問したとき工事中であった住居も完成しており、改めて戦国土豪の暮らしぶりの一端を感じることができた。遠くから土居の内を眺めると、その後方には八百里城址がその優雅な山容を見せていた。この景色は、おそらく戦国時代においても、そのままであったのではなかろうか。また、八百里城の近くには、畑庄を領した細川満国ゆかりの神護山太寧寺・佐々婆神社などが点在している。
………
冬枯れの八百里城再登山
53次・八百里城跡
|
|