篠山には名所・旧跡も数々ありますが、街角にも楽しいところが発見できます。意外な見処、食べ処などなど、篠山ならではのスポットを探索していきます。


 
Vol.10 ●丹波最大級の前方後円墳
 

篠山市街の東北に位置する東本荘集落の東部にある前方後円墳で、南北に車の両輪のように陪塚があることから車塚古墳と 呼ばれるようになった。その規模は全長140m、後円部径80m、前方部幅90mという丹波最大(県下で二番目)のもので、 築造時期は古墳時代中期(五世紀)といわれる。被葬者は崇神天皇の頃、丹波に派遣された四道将軍のひとり丹波道主命 ともいわれる。丹波道主命は系譜上で開化天皇の孫で景行天皇の外祖父となっている関係からか、宮内庁より陵墓参考地に指定され、 発掘調査はもとより立ち入ることも許されていない。
明治二十九年(1896)に後円部が発掘されたとき、埋葬施設は竪穴式石室に長持形石棺が収められ、 大阪や奈良の大王陵と同じものとして注目された。副葬品として甲冑などが発見されたが、石棺は開けられることなく 埋め戻された。そのため、被葬者はどのような人物であったのかは分からないまま、いまも古代の謎を秘めて静かに眠っている。
〔取材:2008-06/13〕
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Vol.9 ●黄色い鳥居のお稲荷さん
 

お稲荷さんの鳥居といえば、京都の伏見稲荷を挙げるまでもなく朱色というのがお決まりだ。ところが、 今田市原にある城山稲荷の鳥居は黄塗りのものである。城山稲荷は、八上城主波多野氏に属した木津城主小野原掃部の 長男小野原采女が築いた城址にあることから、城山稲荷と呼ばれる。伝によれば永禄元年(1558)夏、 一帯に大旱魃が起こったとき、城主小野原勝政は稲荷の神霊を城内に勧請し社殿を建て領内の安寧と五穀豊穣を祈った。 これが、城山稲荷の始まりと伝えられる。
波多野氏が滅亡した後、小野原勝政と一族は豊臣秀吉に属し、慶長二年(1597)朝鮮出兵を命じられた。 小野原一族は城山稲荷に戦勝祈願して出陣したところ、神徳著しく無事に帰還できたという。 それがあって、戦前、この稲荷は徴兵逃れの神様として信仰を集め多くの参拝者で賑わった。 山麓から山上の稲荷社まで続く鳥居はすべて朱塗りで、本殿前の鳥居だけが黄塗りである。 中国から伝わった「五行説」に由来するともいうが不詳、まことに珍しい光景だ。
〔取材:2008-06/13〕
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Vol.8 ●日本で唯一の神号を持つ神社
 

兵庫丹波における唯一の延喜式名神大社で、御祭神は皇城の四方八方の御門を守護する櫛岩窓命・豊岩窓命・大宮姫命である。本殿後方の宮山は神奈備として崇められ、山頂には磐座であろう巨岩群が威容をみせている。櫛岩窓、豊岩窓命は、天岩戸に隠れた天照大神が、ふたたびこの世に出られたのちに住まれた新殿の御門を守った神々で、天照に女官として仕えたのが大宮比売命であった。 かくして、櫛岩窓、豊岩窓命は皇居の御門を守護し、災厄を追い払う神として宮中に祭られるようになったのである。
祭神櫛岩窓命の神号を社名とした神社は日本中でこの一社だけで、中世には大芋荘四十八ヶ村の総社として大宮と称された。また、神社に伝来する櫛岩窓命・豊岩窓命・大宮姫命の坐像は、国の重要文化財指定を受けた貴重なものである。
〔取材:2008-04/27〕
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Vol.7 ●明治・昭和・平成、三つのトンネルがある峠
 

旧多紀郡と氷上郡を繋ぐ交通の要衝である鐘ヶ坂は、『但州湯島道中独案内』に「鐘が坂追入の村はずれよりとげ登り十丁余難所の峠」とあるように、難所として知られたところであった。とくに氷上側は急峻で、山を見上げるとまるで被いかぶさるかのように迫ってくる。 明治になってからトンネルの掘削が計画され、三年の工期を経て総煉瓦造りの鐘ヶ坂隧道が完成したのは明治十六年(1883)のことであった。第二時大戦後、自動車時代が到来すると昭和四十二年(1967)に二代目のトンネルが開通した。しかし、落石や凍結などで通行止めになることが多かったため、平成十八年(2006)に平成の鐘ヶ坂トンネルが開通した。かくして鐘ヶ坂は、十九世紀(明治)、二十世紀(昭和)、そして二十一世紀(平成)と三つの時代のトンネルが存在することになったのである。 〔取材:2008-10/11〕
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Vol.6 ●世界で、ただ一本の榧(カヤ)の木
 

榧はイチイ科に属する常緑高木で、その実は縄文時代より、もっとも食された木の実であった。篠山市の東方日置にある磯宮八幡神社の南側鳥居、その右側の草地にある三本の榧の木がある。その真ん中の一本が「裸榧(ハダカガヤ)」で、足利尊氏が植えたものと伝えられる。世界中でここの一本だけという貴重なもので、大正時代に国指定の天然記念物となった。
建武の新政府に謀反を起こして敗れた足利尊氏は、丹波路を通って九州へ落ちる途中に磯宮八幡に立ち寄った。そのとき、社僧の勝心が菓子として出した榧(カヤ)の実を尊氏は皮をむいて社前に奉げ、武運長久とともにこの実が育って、無皮の実が成るようにと祈ったという。尊氏の祈りは八幡に通じ、その実から育った榧の実は堅い殻がない渋皮だけのものであった。その後、九州の官軍を破って再起した尊氏は、京を制圧すると足利幕府を開いた。貴重であるとともに、まことにめでたい榧の実である。 〔取材:2008-09/27〕
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Vol.5 ●大江山の鬼が架けた岩橋
 

篠山市と丹波市の境に位置する金山の頂上にある奇勝で、古より多くの文人墨客が訪れている。江戸時代の天保五年、丹波に入った浮世絵師安藤広重が「日本六十余州名所絵図」の一つに描いたことはよく知られている。昔話によれば、「大江山に棲む鬼は夜な夜な京に出没して、財宝を盗み、子女をさらうという悪行を繰り返した。その鬼が京から丹波に帰るとき、金山の谷が深く、曲がりくねった道であったため、大きな岩で架け橋を作ったのだ」という。しかし、実際のところは十五世紀の中ごろに起こった丹波地震によって崩れた岩が、架け橋のようになったのだといわれている。岩をよじ登って見るとすばらしい景観が広がるが、架け橋の北側はスパっと切れ落ちており、肝っ玉が縮むこと受け合いの展望だ。 〔取材:2007-12/02〕
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Vol.4 ●神様の追いかけっこ
 

むかし、一人の神様が鐘(金)を盗んで逃げ、それを別の神様が追っかけた。鐘を持った神様は峠を越して氷上郡の小倉まで走ったところで、追う神様は峠の下まで来たときに朝を迎えた。二人の神様は、それぞれ朝を迎えた場所に鎮座し、追っかけた神様を祭る神社を「追手神社」という。小倉の神様は刈野神社といい、鐘を持って越えた山を「金山」、また越えた坂を「鐘が坂」というようになった。のちに刈野神社は追入に迎えられ、いまの「追入」神社になった。
いまも、追入集落に追入神社が、大山宮に追手神社が厳かに鎮座ましましている。追手神社の境内に聳え立つ「千年モミ」は幹の周囲7.8m、樹高34mという大きさで、日本一のモミとして国の天然記念物、兵庫県の郷土記念物に指定されている。 〔取材:2008-05/17〕
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Vol.3 ●かつて、篠山は湖の底だった
 

約一億年前、篠山市一帯に分布する古生層の山の一部が陥没、淡水湖となった。以後、永く湖の時代がつづいたことは、巻き貝、二枚貝や植物の化石が発掘され、も貝田、浜谷、網掛などの地名が残っていることからも推察できる。かつての多紀郡の地名も、いたるところに断崖があり滝が流れ落ちていたことに由来するといわれる。いまの篠山市が、むかし湖の底にあったことを想像するのは難しいが、王地山公園の南麓の本経寺裏断崖に湖であった時代の名残が見られる。 湖に堆積していった篠山層群と名付けられた地層が隆起したことで、かつて岸にうち寄せたさざ波の跡や、貝類の這い跡がわれわれの目にふれるようになった。断崖斜面は崩れ落ちるかと思われる状況で、かすかにさざ波の跡(漣痕)?、あるいは貝の這った跡?と見てとれる痕跡が残っている。 〔取材:2008-06/13〕
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Vol.2 ●一つの谷に、二つの谷中分水界
 

篠山の北西に位置する西紀町の栗柄は、二つの谷中分水界がある全国でも珍しいところだ。
その一つは、栗柄の高王山観音堂の裏を流れる杉ヶ谷川と、その南側を流れる宮田川である。杉ヶ谷川は宮田川に合流するのが自然だが、観音堂のところより北方に流れを変え、そのまま不動の滝を落ち、竹田川→由良川→日本海へと流れていく。一方の宮田川は篠山川に合流して、さらに加古川から瀬戸内海へと流れていく。隔てること数十メートルのところを流れる川が、それぞれ南北へ分かれていくさまはまことに奇妙というしかない。
もう一つの谷中分水界である鼓峠は、峠の頂上にある一枚の田圃から東方へ流れ落ちた水は友淵川に注ぎ日本海へ、西方に流れ落ちた水は宮田川から瀬戸内海へと流れていくのである。一枚の田圃がそのまま分水界というのは例がなく、なんともいえない自然の妙を感じさせる。 〔取材:2008-06/01〕
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Vol.1 ● 新味覚:たまたまや

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