篠山には名所・旧跡も数々ありますが、街角にも楽しいところが発見できます。意外な見処、食べ処などなど、篠山ならではのスポットを探索していきます。 |
![]() 明治二十九年(1896)に後円部が発掘されたとき、埋葬施設は竪穴式石室に長持形石棺が収められ、 大阪や奈良の大王陵と同じものとして注目された。副葬品として甲冑などが発見されたが、石棺は開けられることなく 埋め戻された。そのため、被葬者はどのような人物であったのかは分からないまま、いまも古代の謎を秘めて静かに眠っている。 〔取材:2008-06/13〕
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![]() 波多野氏が滅亡した後、小野原勝政と一族は豊臣秀吉に属し、慶長二年(1597)朝鮮出兵を命じられた。 小野原一族は城山稲荷に戦勝祈願して出陣したところ、神徳著しく無事に帰還できたという。 それがあって、戦前、この稲荷は徴兵逃れの神様として信仰を集め多くの参拝者で賑わった。 山麓から山上の稲荷社まで続く鳥居はすべて朱塗りで、本殿前の鳥居だけが黄塗りである。 中国から伝わった「五行説」に由来するともいうが不詳、まことに珍しい光景だ。 〔取材:2008-06/13〕
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![]() 祭神櫛岩窓命の神号を社名とした神社は日本中でこの一社だけで、中世には大芋荘四十八ヶ村の総社として大宮と称された。また、神社に伝来する櫛岩窓命・豊岩窓命・大宮姫命の坐像は、国の重要文化財指定を受けた貴重なものである。 〔取材:2008-04/27〕
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![]() 建武の新政府に謀反を起こして敗れた足利尊氏は、丹波路を通って九州へ落ちる途中に磯宮八幡に立ち寄った。そのとき、社僧の勝心が菓子として出した榧(カヤ)の実を尊氏は皮をむいて社前に奉げ、武運長久とともにこの実が育って、無皮の実が成るようにと祈ったという。尊氏の祈りは八幡に通じ、その実から育った榧の実は堅い殻がない渋皮だけのものであった。その後、九州の官軍を破って再起した尊氏は、京を制圧すると足利幕府を開いた。貴重であるとともに、まことにめでたい榧の実である。 〔取材:2008-09/27〕
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![]() いまも、追入集落に追入神社が、大山宮に追手神社が厳かに鎮座ましましている。追手神社の境内に聳え立つ「千年モミ」は幹の周囲7.8m、樹高34mという大きさで、日本一のモミとして国の天然記念物、兵庫県の郷土記念物に指定されている。 〔取材:2008-05/17〕
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![]() その一つは、栗柄の高王山観音堂の裏を流れる杉ヶ谷川と、その南側を流れる宮田川である。杉ヶ谷川は宮田川に合流するのが自然だが、観音堂のところより北方に流れを変え、そのまま不動の滝を落ち、竹田川→由良川→日本海へと流れていく。一方の宮田川は篠山川に合流して、さらに加古川から瀬戸内海へと流れていく。隔てること数十メートルのところを流れる川が、それぞれ南北へ分かれていくさまはまことに奇妙というしかない。 もう一つの谷中分水界である鼓峠は、峠の頂上にある一枚の田圃から東方へ流れ落ちた水は友淵川に注ぎ日本海へ、西方に流れ落ちた水は宮田川から瀬戸内海へと流れていくのである。一枚の田圃がそのまま分水界というのは例がなく、なんともいえない自然の妙を感じさせる。 〔取材:2008-06/01〕
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