篠山の歴史・見処を訪ねる-94


白藤城跡



城址を遠望


山頂城址に残る二重の堀切 ・ 曲輪を取り巻く土塁 ・ 西尾根曲輪の大堀切


長谷寺の山門 ・ 西方から城址方向を見返る

篠山市街北方に位置する藤坂集落の鎮守春日神社から北西に約1キロ、 弓谷峠にかかる手前北山に遺構が残っている。戦国時代、大芋衆の一人として活躍した中馬氏が 築いたものと伝えられ、北方の船井郡、西方の氷上郡に通じる街道を押える格好の地にある。 城址は山頂の曲輪と西尾根先の曲輪で構成され、二段式の詰め城形式である。 主体は山上の曲輪で、北尾根先に二重の堀切、土塁で防御された曲輪が残っている。 西尾根先の曲輪は、東尾根側に残る大堀切、高土塁、塹壕状の空堀が素晴らしい。 小ぶりな城で城址までは簡単にたどり着けるが、雑木とブッシュに覆われていて 探索は一筋縄ではいかないところだ。 西南の山麓には後裔にあたるという中馬家の屋敷があり、見るべきところの多い城址ではある。
中馬氏は新田氏の後裔といい、室町時代はじめの明徳年間(1390〜94)、 新田義貞の弟脇屋義助の子尾張守義治が丹波に来住したことに始まるという。『丹波志』などによれば、 義治から四代目の右近之進義貢は新田から中馬と改め、藤坂に新たに館を構えた。そして、義貢の孫越前守治秀が、 元亀元年(1570)に館後方の山上に築城したとされる。 治秀は中村城の山上氏、福井城の森本氏らとともに、八上城主で多紀郡一帯を支配する戦国大名波多野秀治に属した。 天正三年(1575)、織田信長の命を受けた明智光秀による丹波攻めが始まると、 治秀ら大芋衆は波多野方として明智軍と対峙した。しかし、天正五年(1577)、 光秀に降伏、同十年の山アの合戦に明智方として出陣、武運つたなく戦死した。残った一族は離散したが、 のちに藤坂に復帰して帰農したようだ。
山麓の中馬家を訪ねてみると、立派な門構えの住宅で、門の横には堀跡を思わせる窪地があり、屋根瓦には 新田氏ゆかりの「一つ引両」紋が据えられている。中馬家と南面する林景山長谷寺には、中馬氏の先祖である 脇屋義助の位牌が祀られているとのことだ。 南北朝時代史に名を刻んだ新田義貞ゆかりの家が、丹波の一隅で連綿と続いている。まことに、家の歴史とは 数奇なものである。
写真:中馬家の家紋
・取材:2008年05月03日 →11月09日 →2009年10月28日


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白藤城址に登る