中山は篠山の日置より後川を越えて摂津猪名川へ通じる県道12号線沿い、
近年ホタルの里として注目を集める曽地地区にある。
登り道は篠山のチベットとも称される後川地区の後川中、後川下より山道が通じているようだ。
一度、二万五千分の一地図に記された東山麓の四十九池方面から谷筋に記された破線の道を登ったが、
散々な谷登りとなったうえに、中山にたどり着く前に夕立に見舞われ無念の下山をした。
そのとき、山上に明快な山道を発見、無事、西方山麓の曽地奥集落に下り立つことができた。
二度目の登山は、ずぶ濡れで駆け下りた曽地奥への道を登り返す行程で中山を目指した。
改めて登っていくと、むかしから利用された道であろうよく踏み固められたシッカリとした道である。 急な尾根道ではあるが、途中からは曽地方面の見晴ポイントもある。 473mのピークに登りつめると、緩傾斜の尾根道が続く。やがて、夕立に遭って登山を断念したポイントに到着。 そこから急斜面を登り尾根道をたどったが、何のことはない尾根を下ると先の山道と合流だ。 その先の広い沢から登り切ったピークが中山で、山歩きの本によれば何者かが 三角点を引き抜いてしまっていると書かれていた。 その本が発行されてから二十年余、新しい柱石が設置されているかと期待したが、三角点は見当たらない。 改めて地図を見直したが、間違いなく中山である。不心得というよりも愚かな行為に、 腹が立つやらまことに残念なことであった。 下山は中山より南に伸びる尾根筋の道をたどったが、途中で道を見失いやや迷走したものの、尾根に薄い山道を発見。 下るにつれて道は明確となり、木の間越しに曽地奥の集落も見え、無事、山麓の獣除柵へ下りつくことができた。 |
鎌倉時代、曽地奥を治めた領主は内藤氏で、建武のころの内藤入道道勝は戦に敗れた足利尊氏を迎え入れたことで知られている。
獣除柵を出た右手に墓があり、参ってみると内藤氏の墓地で、
その中央に「曽地城主内藤土佐守」道勝の供養碑が建てられているではないか。
室町時代、内藤氏は丹波守護代に任じ、応仁の乱のころに成った『見聞諸家紋』には内藤氏の家紋として
「輪鼓に手毬」紋が収録されている。しかし、
墓地の墓石に刻まれた家紋はといえば、すべて「桐」紋であった
墓地をあとに曽地奥の集落に入ると、いずれも長い歴史を感じさせる風格のある佇まいの家が多い。 そして、外壁に印された家紋を見ると「輪鼓」である。 中世内藤氏の「輪鼓」紋は、シッカリと後裔の家に伝えられていたのであった。 遠い中世の歴史がチャンと紡がれていることを目の当たりにできたことは、 失われた三角点のことを補って余りある眼福であった。 |