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山城惣国一揆を実現した国人たちの家紋
国人らが結盟を行ったという松尾神社
かつての山城国(京都)南部は、京と奈良、また大坂とを結ぶ要衝の地で、戦乱が起こると否応なく、兵が往来するところであった。応仁の乱が起こると、南山城に割拠した国人衆は東西両陣に分かれて互いに争った。乱が終わったのちも、南山城は両畠山氏の戦いの場となった。
打ち続く戦いに疲れた南山城の「三十六人衆」と呼ばれる国人、有力百姓らは、両畠山軍に交渉、ついに両軍の南山城からの撤退を実現した。その中心となったのが「三十六人衆」と呼ばれる国人たちで、
かれらの合議により「山城国一揆(惣国)」と称される政治が行われるようになった。
鹿背山城跡から南山城方面を見る ・国人狛氏が本拠とした狛集落の環濠跡
南山城の国人衆の名字を調べると、惣国一揆の中心となった狛氏、椿井氏、木津氏、井手別所氏、高林氏らの存在が知られるが、国人衆の全体像は掴み難い。かれらの足跡を追ってみると、狛氏が拠った地は環濠集落として当時の面影を伝え、集落内には菩提寺も残っている。狛氏の出自は『狛氏系図』によれば嵯峨天皇に発する渡辺氏の後裔ということになっている。
戦国時代、上洛した織田信長の麾下に属して勢力を保った。江戸時代になって、子孫は織田氏に仕え丹波柏原に移住したという。丹波柏原藩主・織田家の菩提寺成徳寺を訪ねると、境内墓地の一角に狛家の墓石があり家紋は「三つ星一文字」が刻まれていた。なるほど、嵯峨源氏渡辺氏流というにふさわしいものであった。
狛家の墓石と家紋
一方、狛氏と対立関係にあった椿井氏は、藤原鎌足の後裔を称し、戦国時代を生き抜いて徳川旗本として存続した。山城国椿井には椿井氏の城跡が残り、城跡近くの竹藪の中に古墓が埋もれるようにして残っている。椿井氏の家紋は『寛政重修諸家譜』には、「裏菊」とあるが古墓に家紋は確認できなかった。
荒れた椿井家の墓所 ・天正三年銘、戦国時代を生きた椿井氏某の墓石
木津家の墓所 ・墓石に刻まれた家紋
惣国一揆の有力者のひとり木津氏は、中原氏、清和源氏の流れというがよく分からない。木津執行を称し、木津城、鹿背山城を築いて勢力があった。近世に至って在地に帰農、いま鹿背山城の後方に木津家の古い墓所があり墓石には 「上り藤」 紋が刻まれていた。家紋を見る限り、藤原姓だったのでは?などと思ってしまうが、どうだろう。
南山城一帯には惣国一揆にゆかりの史跡(山城など)が残り、なにげに墓地を訪ねると、高林など由緒ありげな名字の墓があり、おおいに興味をそそられるところだ。山城国一揆はわずか八年で終焉を迎えたが、日本史に輝く歴史事件である。
それに関わった国人たちの名字や家紋を調べることで、史料や伝承から漏れ落ちた歴史が見えるように思われ、
おおいに気にかかるのだ。
高林家の墓石の家紋
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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