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中世以来の環濠集落−丹波馬路の「両苗」
中川家祖霊社
京都の西方−丹波亀岡市の北西に位置する馬路、環濠集落の雰囲気を残した古い村で、中世、馬路城があり、そこを拠り所とした在地土豪が割拠していた。
数十軒はあろうかとみえる村の家々は、中川、人見、河原、畑、中澤の五つの名字で網羅された珍しいところだ。
そのうち、中川、人見は「馬路の両苗」と称され、ともに戦国時代を生き抜いた中世武家の流れだ。伝来する由緒書などによれば、
中川氏は清和源氏義光流で、家紋は「中川抱き柏*」。
その図柄は、近世大名として生き残った中川瀬兵衛清秀を祖とする中川家と同じで瀬兵衛清秀も実は馬路中川氏の系という説がうなずけるものだ。
人見氏は橘諸兄を祖とするというが、一説には武蔵七党猪俣党の分かれといい、家紋は「違い矢」であった。
武蔵七党系図をみると猪俣忠兼の後裔又七郎長俊が丹波馬地道を賜って移住したとある。いずれにしろ、馬路村屈指の古い家だ。
中川家の抱き柏 ・ 人見家の違い矢
河原家の卍 ・ 畑家の三つ柏 ・ 中沢家の五瓜
河原、畑、中澤の三家は両苗につぐ家だそうで、それぞれ、家紋を探ってみると、
河原氏が「丸に卍」、畑氏が「三つ柏」、中澤氏が「五葉木瓜(五瓜)」を用いていた。
馬路の五家はそれぞれ氏神ともいうべき祖霊社を祀り、いまも一族で宮座をつくり祭祀を続けているというから驚いた。
何やら時代を感じさせる馬路集落
亀岡市馬路集落は、口丹波とも称された南桑田郡のごくありふれた近郊農村だ。しかし、そこに足を踏み込み、集落内の路地をそぞろ歩いてみると、
思いもかけぬ中世以来の歴史を刻み込んだ名字と家紋に出会えるところであった。
せっかくなので、馬路集落の共同墓地を訪ね、さらに、馬路の五名字の家紋を探索した。結果は、中川家が「抱き柏」「六つ木瓜」、人見家が「違い矢」、
畑家が「三つ柏」、中沢家が「五葉木瓜」、そして河原家が「卍」で一致していた。集落によっては同姓でありながら家紋を違えているケースは少なくないが、
これだけ名字と家紋が一体化した馬路集落は、家紋と名字好きには気分がよいところでもあった。
中世から江戸時代、そして現代まで紡がれてきた馬路集落の五つの名字と家紋、これからも大切に守り伝えて行ってほしいと願わずにいられない。
*清和源氏多田氏流に多い 「六葉瓜の内唐花」 を用いる中川家もあった。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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