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播磨恒屋城主ゆかりの家紋
祐光寺山門と恒屋城(後方の山上)
中世播磨の武家といえば守護職に任じた赤松氏、その赤松氏に仕えた武士の一人に恒屋城主の恒屋氏がいた。恒屋氏は姫路市北東部に位置する香寺を領した小勢力ながら、
その本拠である恒屋城は前城と後城でなり、技巧的な縄張りは恒屋氏にふさわしからぬ山城である。戦国後期の当主・恒屋肥前守は、赤松宗家が拠る置塩城を攻め、
武運つたなく討死したことが記録に残っている。おそらく赤松氏一族で播磨西部の守護代に任じる宇野氏を後ろ盾とした行動であろうが、肥前守は小勢力ながら乱世の武人であった
そのような恒屋城跡の登り口に、祐光寺という浄土真宗大谷派の寺がある。
伝によれば、恒屋城主恒屋氏の菩提寺であったというが、天文十一年(1542)に香寺の土豪・後藤対馬守の三男・六郎が開基したものという。
その寺紋は一見、杏葉のように見え、ジックリ見ると藤と茗荷(杏葉?)とを合体したようにも見える不思議な図柄だ。
古い記録によれば祐光寺の紋は「茗荷」だったといい、かっての屋根瓦には恒屋城が滅んだ後、山上から拾ってきた古瓦を葺いたものが交ざっていたとのことだ。
実際、恒屋城跡の調査によって出土した古瓦の紋と、祐光寺の古瓦の紋とは同じ図柄であることが確認されている。
祐光寺の紋 ・復元された城址の瓦紋
では、古瓦の文様は恒屋氏の紋かといえば、そうでもなさそうで、宗旨が浄土宗であれば杏葉ということで一件落着となるのだが、真宗大谷派となれば牡丹というのが、
さもあるべき寺紋である。
さてさて、祐光寺の紋はどこらへんにルーツがあり、その意匠は何をあらわしたものか、いやいやどのような歴史を語っているのか? いまも課題のままなっている。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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