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但馬と播磨を股にかける名字、田路
田路城跡から霧に煙る田路谷を見る
播磨西部に位置する宍粟市北部の一宮町に但馬国朝来郡田路谷から発祥した田路という名字があり、「トオジ」とよばれている。
そのルーツは、桓武平氏良文流千葉常胤に始まるという。以前、但馬国八木城に登った時、山麓で田路家の墓石を見かけ、千葉流を示す「九曜」が刻まれていた。
以後、九曜紋、難読なことなどが相俟って、気になる名字の一つとなっている。
宍粟は播磨と因幡鳥取とを結ぶ因幡街道が南北に通じ、田路氏が本拠とした三方は因幡街道から分岐して朝来に通じる街道の要地にあった。
その分岐点である一宮町安積を名字の地とする中世武家安積氏とともに、播磨西守護代・宇野氏に属していた。
但馬八木城下の田路家 ・ 播磨安積の田路家
安積氏の居館跡と山城跡を訪ねた時、居館跡近くの墓地で田路氏の墓石と出会った。さて家紋は?と見れば「梅鉢」「剣カタバミ」が刻まれていたのであった。
おりから墓を掃除していた男性に由来を聞けば、「梅鉢」紋の方が旧家のもので、もともとは九曜であった。武家を捨て帰農したときに星三つを減らして六曜とし、さらに梅鉢に変化したのだという。
「なるほど!」 形は変わっても家紋は先祖を語る印、古の名残をとどめ、家の歴史を伝えられていることが、まことに嬉しかった。
その後、宍粟市三方で田路氏の山城群を調査されている田路さんのガイドで、生栖城跡、高取城跡に登り、いろいろお話をお聞きすることができた。こちらの田路家は、ずばり「九曜」を家紋に用いられていた。
三方田路氏が本拠とした三方城跡の登山口にも田路家の墓石があり、「九曜」紋が刻まれていた。
三方田路家が本拠とした三方城跡を見る ・ 三方城跡の大堀切
生栖城下の田路家墓石 ・ 三方城登山口の田路家墓石 ・ 三方集落、田路家の屋根瓦
以後、但馬と播磨を結ぶ市川沿いの墓地、丹後舞鶴などで田路氏の墓に出会ったが、いずれも「九曜」紋が刻まれていた。
さらに、宍粟の三方から一山越えた朝来側の田路谷を訪ね、田路氏の館跡に建つ菩提寺だった祥雲寺の瓦には「九曜」紋が刻まれていた。
市川、鶴居城跡山麓の墓地 ・ 舞鶴、寺町の境内墓地
祥雲寺の古瓦
発祥の地である田路谷にも田路姓があったが、どうやらのちに他姓から変えたものであったようだ。田路谷の入り口にあった神社の玉垣を見ると、藤次姓の方々の名前が刻まれ、こちらの田路さんは「藤次」を名乗っておられるようだった。藤次一族の墓所を探したが発見できず、藤次さんの家紋ウォッチは宿題として残った。
振り返れば、安積城跡の近くの田路家墓地で見た家紋は、田路氏のなかでは少数派であったような・・・。もっとも、その伝承には中世武家として生きた歴史が語り伝えられていたことだった。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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