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丹波亀岡で甲賀の家紋と出会う
中世武家の家紋を知る史料に『見聞諸家紋』があり、東軍細川氏の守護領国であった丹波の武士らの紋が収められている。
そのなかに福井氏の「井の字」と西田氏の「葵」紋があり、福井氏は亀岡、西田氏は園部の在地武士と知った。
早速、亀岡方面に歴史的足取りを調べにいったところ、明智氏に抵抗した福井氏の居城跡は西岸寺という寺になっていた。
明智に敗れた福井氏のその後の歴史にはたどり着けなかったが、
城址にある西岸寺の境内墓地で、佐治家の「九本骨扇に日の丸」、上野家の「横木瓜」紋に出会った。
福井城址主郭部を占める西岸寺
佐治家の「九本骨扇に日の丸」紋・上野家の「丸に横木瓜」紋
戦国時代、甲賀は小武士が惣を結んで二十一家衆、五十三家衆などと呼ばれて割拠していた。なかでも佐治氏、上野氏は有力武士として勢力があった。
佐治氏は桓武平氏といい、家紋は「日の丸扇」を用い、本家が九本で分家は骨の数を八本、七本、と減らすというのが約束事となっている。
一方の上野氏は甲賀に繁衍した伴氏の一族で、甲賀伴氏の代表紋は「横木瓜に二つ引き両」である。おそらく、西岸寺の佐治氏、
上野氏は、はるか遠い甲賀から丹波の地に流れてきた家であろう。
ものいわぬ墓石に刻まれた名字と家紋を見ていると、そこにふり積もった歴史を饒舌に語りかけてくるのである。
八木西田家の立ち葵紋・綾部西田家の三つ追い葵紋
もう一方の西田氏は園部の口入が故地といい、訪ねてみたものの、まったく取りつく島もない結果に終わった。
その後、丹波地域の墓地を訪ねると、西田家の墓と出会うことがあり、家紋を見ると「立ち葵」「三つ追い葵」など「葵」紋を用いていて、
『見聞諸家紋』に収録されている西田家の「二つ葵」紋に通じるものと思われた。
福井氏と西田氏、佐治氏と上野氏、それらの名字と家紋が紡ぎだす歴史は、あまりに深く、果てしない。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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