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丹波野々口氏の三つ引両紋
最福寺山門と埴生城跡(後方山上)
京丹波と兵庫丹波の境目に位置する天引峠を兵庫から京側に越え、さらに走ると埴生集落を通過する。埴生集落を通る街道は中世の旧山陰道であり、
埴生は園部方面と分岐する交通の要地であった。その要地を押さえる山上に残る埴生城は、土豪・野々口氏が築いたものと伝えられている。
埴生城跡は主郭と北腰曲輪で構成された小規模な城址だが、尾根側に櫓台であろう高土塁と堀切を構え、土塁、堀切ともに石積で固められていた。
北腰曲輪には山麓の館跡から登ってくる山道が取り付き、虎口を形成している。
山麓の居館と尾根先の山城とがセットで残る埴生城跡は、谷川を自然の濠とした面白い中世城館だ。
櫓台に散乱する石積の崩落 ・ 尾根側の堀切
かつての城門を移築したという、最福寺境内にある墓地を訪ねると野々口家の墓碑が並んでいる。かつての城主野々口氏の子孫にあたる家々のものであろうか、
墓石に刻まれた家紋を見るといずれも「丸に三つ引両」である。
野々口氏は埴生集落を含む本梅川流域を荘域とした丹波国船井郡野口荘(野々口郷とも)から起った名字と思われ、野口とも書かれたという。
家紋だけで判断すれば、野々口氏は桓武平氏三浦党の流れを汲む家なのだろうか?ということになるが不詳。
最福寺境内墓地の野々口家墓石に刻まれた「三つ引両」紋(左二つ) ・ 篠山側の野々口家の「三つ引両」紋
光秀に属して活躍した野々口西蔵坊は、山崎の合戦で明智光秀が滅亡したのちは、小畠氏らとともに秀吉に転じ丹波の代官に任じたことが知られる。そして、天正十二年、小牧長久手の合戦に先立つ伊勢亀山城攻めに丹波衆を率いて秀吉軍に従軍していた。よく乱世を生き抜いた西蔵坊の消息は、以後、不明となる。いまも、京都丹波西端の埴生と兵庫丹波東部の篠山一帯に野々口姓が分布し、いずれも「三つ引き両」を家紋としている。
埴生は、明智光秀の丹波攻めの最前線であった歴史、土豪・野々口氏にゆかりの山城、家紋、家系などなど、さまざまな妄想が広がる思った以上に楽しめるところであった。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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