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八重垣神社
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出雲国造家
(兼務) 中世は佐草氏が奉斎した。
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須佐之男命の神詠とされる「八雲立つ、出雲八重垣、夫婦籠みに、八重垣作る、その八重垣を」にちなんだ社名によって、出雲大社に次いで縁結びの神として全国的に知られている。しかし、八重垣神社じゃ『出雲国風土記』にも『延喜式』にもなく、永禄八年(1565)の毛利元就の判物(出雲国造家文書)に「八重垣神社楽田」とみえるのが記録上の初見である。
風土記意宇郡の大草郷の条に「大草郷、郡家の南西二里一百二十歩なり。須佐乎命の御子、青幡佐久佐丁壮命坐せり。故、大草という」とあり、同書意宇郡の在神祇官社に「佐久佐社」があることから、八重垣神社は江戸時代から諸書によって『延喜式』の「佐久佐神社」に比定され、現坐もこれは動かない。
中世中期の康暦・文安・康正(1397-1457)頃の古文書には安国寺領として「佐草社」がみえるが、八重垣神社および
社家の佐草氏に伝わる古文書にはすべて八重垣社とある。『出雲国風土記鈔(天和三年:1683)』の大原郡海潮須我社の
説明に「須佐之男命が大蛇退治のあと、ここに宮を作り、稲田姫を娶って須我湯山主命(大己貴命の異名)が生れた。
そこでこの三神をこの里に合わせ祭った。のちに東北四里ばかり離れた意宇郡佐草村に遷したのが今の八重垣社である」
と記され、さらに『雲陽誌(享保二年:1717)』の須我社の条にも同じ記述がある。これらによれば、八重垣神社は
大原郡海潮里須我の地から現社地に遷った神社だというのである。
揺蕩う社名
いずれにしろ、八重垣神社は佐草の地に進出したわけだが、承応二年(1653)の『懐橘談』や『出雲国風土記鈔』では、「佐久佐社、大草村八重垣大明神」とあって、古代の佐久佐社がそのまま八重垣社と名を変えたのか、それとも合併して改名したのかわからない。しかし、『出雲神社巡拝記』は、佐草大明神と八重垣大明神とを別個に記し、前者について、「当社は小社と成て此所八重垣神社のわきにあり。……末社の如く小社なれば……巡拝の人は心得を以拝礼すべし」と注意をうながしている。つまり、佐久佐社は八重垣社の境内社として細々と存続してたことが知られるのである。
このような経緯から、近世を通じて八重垣神社の祭神は素戔鳴尊・稲田姫・大己貴命になっていた。ところが
明治に入り、延喜式にない社名では高位の社格を得られないことから、本社と末社の関係を元にもどして
「佐久佐神社」と改め、主祭神を青幡佐久佐比古命として当局に届け出た。しかし、久しく馴染んできた「八重垣」という社号を伏せておくに忍びず、社号を「八重垣神社」に戻すことを陳情、容れられて祭神も明治以前に復し、現在、青幡佐久佐比古命は合殿神となっている。
八重垣神社の西方にある小丘は「佐久佐女の森」と呼ばれ、そのなかに「鏡の池」と呼ばれる小さな湧水池があって、傍らに稲田姫を祀る小祠と神木「夫婦杉」がある。池は良縁を求める男女の神占の場となっており、そこから水神に捧げたとみられる陶質の土馬や須恵器が発見・採集された。八重垣神社では、この一角を「奥の院」と称しており、あるいは佐草の神を祀る原初の斎場ではなかったかと推察されている。
なお、八重垣神社は中世に安国寺領であったため、出雲国造家とはつながりがなかったらしいが、近世になって「意宇六社」に含まれ、出遷宮は千家国造家、本遷宮は北島国造家が執行した。
【亀甲に剣花菱紋】
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