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佐太(佐陀)神社
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佐陀正神主家
朝山氏
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佐太神社は『出雲風土記』に、佐太大神、また佐太御子神とみえ、神名火山のふもとにあると記されている。神名火山は神社から約六キロメートルはなれた現在の朝日山のことといわれる。1974年、この朝日山の麓から銅鐸が出土した。出雲の銅鐸で出土が明確なものの一つである。この銅鐸の出土から、佐太神社の周辺にははやくから農耕が芽生えていたことがうかがえる。
佐太神社は、延喜式に「佐陀神社」と記され、佐陀大神社とも称せられた。奥殿、北殿、中殿の宏大な三殿が並び、
佐陀三社とも呼ばれ、出雲国の二宮と崇められた。享保二年、松江藩の儒臣である黒沢長尚が撰した『雲陽誌』には、
神領七千石、神職は二百二十四人を数え、毎年祭礼が賑やかであったが、豊臣秀吉によって神領は没収され、神職も
わずか七十五人になったと記されている。
江戸時代、松平氏の治世には、佐陀、杵築(出雲)の両神社の祠官は藩の寺社奉行の下で、出雲国の神社を二分して支配した。佐太神社は島根・秋鹿・楯縫の三郡と意宇郡の西半分の神社をその勢力下に収めていた。
佐太大神の誕生神話
佐太神社の祭神「佐太大神」については、出雲国風土記にいくつかの記述がみえる。一つは佐太大神の生まれた加賀郷の名の起こりを説いたもので、御祖のカミムスビの子のキサカヒメが「くらき岩屋なるかも」といって金の矢で射たとき、光かがやいたから、加加というとある。加賀のは通り抜けることのできる洞穴があって「加賀の潜り戸」と呼ばれている。
もう一つの記載は、この洞穴こそ佐太大神の生まれた場所で、この神が生まれようというとき、御祖のカミムスビの弓矢がなくなった。そこでカミムスビの子どものキサカヒメが、私の生んだ子がまさしく夫の麻須羅神の子であるのなら、失くなった弓よ出てこい。と祈願した。そうすると、角の弓矢が流れてきた。しかし、キサカヒメは、そのそれを生まれたばかりの佐太大神に示しながら「これは失くなった弓矢ではない」といって投げ捨てた。すると今度は金の弓矢が流れてきた。それを拾って、「暗い岩屋であることよ」といって、金の弓矢をつがえて、洞穴を射とおしたということである。
加賀の潜り戸を貫いた黄金の矢とは、的島の東から射しこむ太陽の光線を比喩したものであろう。また、黄金の矢を持つ太陽神が、暗い洞穴に矢を放つとは、太陽神とそれをまつる巫女の交合の儀式を意味するものとも考えがえられる。
佐太神社では古来、竜蛇は恵曇の古浦から上がるとされていた。古浦とそのとなりの江角浦とを合わせて神在浜と呼ばれるが、そこには板橋という佐太神社の社人が居住して、松江藩から食禄を受け、竜蛇上げの職を奉していたといわれる。
竜蛇はセグロウミヘビとよばれる海蛇で、この海蛇が海上を渡ってくるときは金色の火の玉に見えるという。そして、佐太神社の境内にある舟庫に掲げられた額には「神光照海」とかかれ、「海を光らして依来る神」はセグロウミヘビであったと思われる。
『古事記」に、垂仁天皇の皇子のホムチワケは出雲にゆき「檳榔(アジマサ)の長穂宮」に住んだ。ある夜、ヒナガヒメとむすばれたが、その姫をそっと見ると蛇であったのでホムチワケは逃げ出した。ヒナガヒメは「海原を光らして」追いかけてきた、とある。ナガの語源はもともとサンスクリットのナーガからきたもので蛇をさすといわれている。また「檳榔の長穂宮」の檳榔はビロウ樹のことで、いわゆるクバ、南方産の木である。クバは南方で神聖な木とされ、平安時代には宮廷でアジマサの扇として珍重された。
三つの神紋
佐太神社の神紋は、奥殿、北殿、中殿それぞれ異なった紋を使用している。すなわち、北殿が「輪違い」、
中殿が「十五本骨檜扇」、南殿が「二重亀甲」である。中殿の「十五本骨檜扇」は、佐太神社神宝の「御檜扇」を
象ったものであろう。
【十五本骨檜扇(文中:上=輪違い、下=二重亀甲)】
■正神主朝山氏参考系図
・朝山氏系図は「武将の名字」にも掲載したが、見比べるとその内容は異同が多い。こちらに掲載した系図は『古代氏族系譜集成』の朝山氏系図で、「名字」の方は、『室町守護職家事典」から転載させていただいたものである。いずれが正しいかは、見比べて諸兄の判断に委ねたい。
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