家紋 三嶋大社

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矢田部氏



 三嶋大社は、大山祇神と事代主神を祭神とする旧官幣大社である。鎮座の時代は明かではないが、往古より朝廷、武将の尊崇を集めてきた。
 『延喜式』では名神大社に列し、月次、新嘗の官紙幣に預かり、全国の名神祭二百八十五座の中に加わり、 奠紙幣案上祭三百四座の内に列せられた。また、同書、伊豆国正税公廨に三嶋神料として稲束二千束を献られたことが 知られる。

武家の尊崇を集める

 伊豆に配流された源頼朝は三島大社を篤く信仰し、治承四年(1180)、挙兵に当たって三嶋大明神の神威を頼み、安達藤九郎盛長を使として社参せしめ、戦捷を祈請し、挙兵成功ののちに、三薗郷・川原谷郷の二郷を神領として献じ、神主盛賢方を沙汰職に補任した。盛方は伊豆国造若建命の末裔であり、近世のはじめに矢田部を名乗り、いまも三嶋大社の神職として連綿している。
 頼朝の信仰はその後も篤く、元暦元年(1184)四月糠田郷を献り、流鏑馬を奉納し放生会を行い、文治三年(1187)には社殿の造営を行った。また、頼朝妻である北条政子が奉納した「蒔絵手箱」は国宝に指定されている。
 鎌倉幕府執権北条氏も三嶋大社を尊崇し、安貞二年、玉河郷を献じ郷司職を神主盛重に沙汰し、嘉貞元年(1235)社殿を造営、正和四年(1315)九月、駿河国良知郷を献じた。
 鎌倉幕府が滅亡し、建武新政が発足すると、北畠顕家は天下太平祈願のため、安久郷を献り、足利尊氏もまた天下太平を祈願して駿河国土加利郷を献じたほか、伊豆国中村、安富、鶴喰を献じている。その後も足利氏はその幕府および関東管領により、伊豆国矢田郷を献じ、ときの神主盛倫を郷司職に任じるなど、足利氏は尊氏以来、実に二十三郷村を献じ崇敬の誠を現している。
 戦国時代に至ると、関東の覇者となった後北条氏もまた、三嶋大社を篤く信仰している。初代早雲は祭礼銭の制を定め、二代氏綱は社殿の造営を行た。しかし、永禄から元亀年間(1570頃)武田信玄の侵攻により焼亡。その後、武田氏は織田氏に滅ぼされ、織田氏と境を接するようになった北条氏政は、織田氏との友好を深めようと三嶋社に祈願を命じた。そして、その代わりに息子で家督を継いだ氏直に大社の造営を助言しようと約束した。
 天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めが開始され、東海道箱根路を押さえる山中城は秀吉方の猛攻を受け、落城した。このとき、戦を避けて避難していた神主・社人らに対して、秀吉は安堵状を発行している。後北条氏滅亡後、関東に入国してきた徳川家康は、文禄三年(1594)に三百三十石、慶長二年(1604)に二百石を寄進した。
 元和元年(1615)豊臣氏を大坂の陣に滅ぼした家康はその翌年没したが、跡を継いだ二代将軍秀忠も家康のあとを受けて社領の安堵を行った。
 幕末の戊辰戦争当時、江戸城攻撃に向かう官軍は、東海道に面する三嶋大社に先導を依頼した。ときの神主矢田部盛治はその求めに応じて、伊豆伊吹隊を結成し、官軍の護衛先導役を勤めた。このとき盛治が着用した陣羽織の背には「五七桐紋」が金刺繍されている。また盛治は、当時における伊豆の地域史、全国の政治・社会動向を知るうえで貴重な『矢田部盛治』日記を遺している。
【折敷に三文字】





■大宮司家矢田部氏系図
   


[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]