家紋 吉田神社

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吉田流卜部氏


 貞観年間(859-77)に平安京の東、神楽岡の西麓に、藤原氏北家魚名流の後裔、中納言藤原山蔭が、藤原氏の氏神である奈良の春日大社の四神(建御賀豆知命・伊波比主命・天之子八根命・比売神)を勧請して、山蔭流の氏神として創建したことにはじまる。当初は山蔭の家の鎮守の社の性格が強かった。
 のちに山蔭の子中正の娘と藤原兼家との間に生まれた詮子が円融天皇の女御となり、一条天皇をもうけ、母后となるにおよんで、外祖父兼家の権勢の高まりとともに外祖母の家である山蔭の子孫の地位も上昇した。一条天皇が即位された寛和二年(986)に大原野神社の大原野祭に準じて、朝廷の祭である公祭に列することが定められ、翌永延元年より四月・十一月の二季の公祭に預った。
 また、この頃より国家の重大事や祈年祭などに際して伊勢以下の十六社に奉幣使が遣わされる制度が確立していったが、この十六社に広用社・北野社とともに吉田社を加えた十九社奉幣が行われるようになり、正暦二年(991)に正式に同社が加列して十九社が確定、さらに十一世紀に入ると、さらに拡大して二十二社奉幣制度として成立をみた。
 同社は平城京における春日社、長岡京における大原野社に準じ、平安京の藤氏の氏の社と位置づけられ、公祭の吉田祭には朝廷の公的の職が祭儀の準備に携わり、天皇の使(近衛使)が差し遣わされるほか、藤原氏の氏長者から神馬が奉納されることが例となった。
 以来、公家と藤原氏の崇敬は厚く、神社の領の職に、神祇官の次官の地位に昇るよういなる平野社領の卜部氏一族が任じられ、こののち吉田卜部氏が社司・神主職を継承して明治に至った。
 この間、吉田家から代々すぐれた神道家が輩出し、『日本書紀』の家の学問を重視して、応仁の乱後に兼倶が吉田神道を創唄した。中世末期から近世には、各地方神職の宗家となり、同社は全国神道界の文化センター的役割を果たした。吉田兼見は天正十八年(1590)、境内の斎場所に神祇官に祀られてきた八神殿を移し、神祇官代として祭祀を担当。以後の伊勢の例幣、大嘗祭の由奉幣は同所から派遣された。
 さて、吉田神社の祀官吉田氏は、伊豆国出身の平麻呂に始まり、亀卜道の家として神祇官で勢力を得、『日本書紀』や神祇祭祀にも通じ、大中臣氏とともに神祇官の次官の地位を継承した。ところが、『尊卑分脈』に収められた「卜部氏系図』によれば、中臣清麻呂の曾孫に平麻呂がおり、中臣姓を改めて卜部姓と記されている。これを見る限り、中臣氏の一族ということになる。
 その出自はともかく、平安時代中期、兼親・兼国のとき吉田・平野の二流に分かれ、卜部氏氏長者も二流が交替で受け継ぎ、それぞれ学問の家として知られた。吉田卜部氏中興の祖といわれる兼熙のとき、卜部宿禰から朝臣に改められ、至徳三年(1386)従三位に昇り、さらに正三位となる。卜部氏ではじめて公卿に列し、以来、歴代三位以上まで昇叙するのを例とし、堂上公家となった。
 家名は冷泉・室町などを称していたが、永和四年(1378)四月、兼熙の邸宅のある北小路室町に足利義満の花御所が築造されたため、敷地と室町の称号を譲り、代わって吉田神社の祠官であったことから吉田を家名とした。『徒然草』を著わした卜部兼好は一族である。
【下り藤】




■社家卜部氏参考系図




[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]