家紋 八坂神社(祇園社)

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八坂造


 社伝によると、斉明天皇二年(656)高麗の調度副使伊利之使主の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔鳴尊をまつったことに始まると伝えている。伊利之は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖であった。
 八坂造は崇峻天皇二年(589)八坂塔で知られる法観寺を建立している。貞観十八年(876)天竺の祇園精舎の守護神であった牛頭天王を常住寺の僧円如が播磨国広峰より八坂郷の樹下に迎えたともいう。さらに、摂政藤原基経が元慶年間(877-84)、ここに精舎を造り観慶寺と称し、祇園天神堂を建立したとも、承平四年(934)感神院社壇を建立したとも伝える。これらは祇園社の創祀と関係があろう。
 はじめ興福寺の支配をうけ、天延二年(974)よりは天台別院とされ、比叡山延暦寺に末寺化され、神仏習合の色彩が強かった。しかし『日本紀略』天慶五年(942)にも祇園社と称し、長徳元年(995)より二十二社に加えられているから、神社としての性格を持っていたことは疑いない。さらに、『釈日本紀』所引の『備後風土記』逸文に、昔祖神が南海を旅し行き暮れて宿を乞うたとき、巨且将来はそれを拒み、蘇民将来は快くもてなしたので、祖神は「我はハヤスサノヲの神なり」といい、疫疾流行の際も茅の輪を腰につけて「蘇民将来の子孫」と称するものは難を免れしめられたとする所伝を記し、「これすなわち祇園社の本縁なり」とするから、早くより祭神はスサノヲノミコトとされていたことが分かる。
 延久二年(1070)の太政官符に祇園感神院として社領の四至を「東限白河山、南限五条以北、西限堤、北限三条末以南」と記す。明治四年神仏分離とともに社名を八坂神社と改め、現在に至っている。  八坂神社の神事として「祇園祭」が知られている。祇園祭は貞観十一年(869)悪疫流行に際して、日本六十六ケ国の数に応じた六十六本の鉾を立てて牛頭天王をまつり、御輿を神泉苑に送って災厄除去を祈った御霊会に始まるという。


●写真:八坂神社境内/祇園祭の提灯/山鉾(写真提供=山根章善氏)


 御霊会は奈良時代から平安時代にかけて政治的に失脚した人々の霊魂がもたらす災いを鎮めようとしたもので、貞観五年(863)早良親王等五人の霊を鎮めるために、神泉苑に御霊会を修したことが『三代実録』にみえる。貞観七年六月十四日にも御霊会の修されていたことがみえ、祇園御霊会の濫觴とうかがえる。『二十二社註式』祇園社祭礼の項に、御霊会は円融天皇の天禄元年(970)、六月十四日を以て定式とされ、十五日勅使が立つを例とした。
 八坂神社の祭祀は、古くには八坂造の子孫が務めていたようである。伝わる系図によれば、伊利之の子・保武知は山背国愛宕郡八坂の里に居住して八坂造を賜り、八坂保武知と称した。以後、子孫は八坂の里に住したという。そいて、真綱に至って、紀長谷雄の曾孫忠方の娘を妻として、二人の間に生まれた貞行は剃髪して行円を名乗り、永保元年(1081)祇園社執行となった。以後、かれの子孫が代々祇園社執行を務めたとある。
 しかし、伝わる系図は中世の頃で途切れている。おそらく、中世になる比叡山の末寺として、執行職が派遣されていたものと考えられる。
【木瓜・三つ巴】




■八坂造略系図(中世以降不詳)




[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]