家紋 建部大社

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建部氏


 祭神は、景行天皇の皇子で東国征伐の英雄とされる日本武尊である。奈良時代に神崎郡建部郷から瀬田大野山(所在不明)山頂に遷され、その後、建部氏によって現在地に遷座された。古くから歴代朝廷の尊信が篤く、また武将たちの崇敬も深く集めた。さらに、この社は、『延喜式』にも記され、近江国一の宮の社格を誇っている。
 特に平安時代末、平治の乱に敗れた源頼朝が平家に捕らえられて伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄 って源氏再興の祈願をし、見事のその願が叶って以来は、武運来運の神として信仰を集めた。  
 社殿は、日本武尊を祀る正殿と大己貴命を祀る権殿が並び立ち、拝殿左右に末社が並んでいる。社宝とし ては、平安時代の作で日本武尊の妃といわれる木造神像がある。境内にある石灯篭とともに重要文化財に指 定されている。
 毎年八月十七日に行われる船幸祭が有名である。 船幸祭は 日本武尊の海路東征に由来する建部大社の例祭で、瀬田川を船上渡御する華麗な水上祭である。 十六日が宵宮で、船の飾り付けが行われる。十七日の夕 方になると、重さ1.5tもある大神輿が台車で瀬田の唐橋まで運ばれてくる。これを、大型和船二隻を連結し た御座船に乗せて、神楽船・稚児船など20隻に警固されながら南郷洗堰近くのお旅所まで瀬田川を川下りす る。
 建部大社の祭祀を司ったのは、建部氏であった。系図によれば、建部氏は祭神である日本武尊の子孫を称し、派遣随使・派遣唐使を務めた犬上君御田鍬の弟で建部君を賜った息知を祖とすると伝える。息知より四代の孫にあたる益人が初めて建部神社を勧請したという。息知はまた、建部朝臣姓も賜っている。子孫は神崎郡に住し、祖神を祀る建部大社に奉仕した。
 また、建部氏は武士としての側面ももっていたようで、平安末期の助継は源為義に従っていたことが系図に記されている。そしてその孫光政は、建部庄の地頭職を得ていることから鎌倉御家人に列していたようである。その子建部光政は、承久の乱に際して京方に従い誅されている。
 光政の子光基は建部社神主を務め、建部庄管領も兼帯している。しかし、その後数代で系図は途切れ、中世のころに建部氏の嫡流は廃絶したようで、いまにその家系は伝わっていない。
 ところで、戦国期、秀吉に仕えて活躍した建部高光が知られ、その子孫は播磨国揖東郡林田藩主となった。この建部氏は佐々木氏支流を唱えているが、おそらく建部君の後裔の建部氏の一族が宇多源氏を仮冒したものであろう。
 また、南北朝期から戦国時代にかえて活躍した禰寝氏の祖は、薩摩国禰寝郡司建部清重とされる。期清重は、建仁三年、源頼家から南俣院地頭職を補任された。清重は平維盛の孫ともいわれ、清盛の清と重盛の重をとって清重を名乗り、源氏をはばかって建部氏を称したというが確証はない。建部系図をみると、息知の子稲万呂のの後裔豊清は大宰権大典となり、その孫田所大夫清近の子清貞が禰寝院司となり、その孫に禰寝院司清重の名があるが、さきの清重と同一人物であるか否かは不詳である。
【三本杉】


■社家建部氏参考系図





[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]