家紋 多賀大社

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犬上/大岡/大賀氏


 多賀大社の鎮座年代は『古事記』上巻に「伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀」と見え。『古事記』が撰進された年代からおして、その鎮座は八世紀以前といえる。
 『延喜式』巻十に「多何神社二座」とあり、伊邪那岐命、伊邪那美命の二神共に国幣に預ったことがわかる。鎌倉時代には神官兼御家人による衆議制により神社が運営された。後醍醐天皇の時、五辻宮守良親王が朝敵誅伐を祈請して多賀庄半分を社領として寄進した。
 室町末期、従前の衆議機関に代わって神宮寺である別当不動院が台頭し、守護職佐々木一統、のちには織田信長、豊臣秀吉の擁護もあて坊人達の活躍は目覚ましく、諸国に御神札を配し、民衆にその神徳を広めた。
 特に、秀吉は天正十六年(1588)生母大政所の病気平癒、延命の祈願を寄せ、その御礼として米一万石を寄進したことは有名である。江戸時代に入ると、元和七年(1621)徳川秀忠より三百五十石の神領の寄進を受け、寛永十五年(1638)には、不動院大僧都慈性が徳川幕府の助力によって本殿以下諸堂社、末社に至るまで大造営がなされた。
 降って、慶安四年(1651)彦根藩主井伊家より百五十石の神領が加増された。
 多賀大社の大祭は四月二十二日で、この祭は古く鎌倉時代の文献に残っている。「まつり」の主たる奉仕者は御使殿と馬頭人と呼ばれる二人である。御使殿は犬上郡内に居住する多賀氏と河瀬氏の一族で「氏座」を構成し、この座席を有する者が順番でその年の御使殿を勤仕した。馬頭人は、犬上郡の郷民のなかから器量によって選ばれていた。
 ところで、多賀神社の祀官は古くは中原姓の多賀氏であったが、中世後期からは大神主河瀬氏(犬上姓)・山田神主大賀氏・日向か神主大岡氏が代わり、ついで青蓮院の尊勝院が多賀大社の不動院別当を兼帯して社務の実権を握った。また、大神主・日向神主・山田神主をもって三神主といった。
 大神主家は、景行天皇の皇子日本武尊を祖とする犬上君を御田鍬を祖とするという。御田鍬は遣随使・遣唐使として波涛を超えて異国に使いした人物として知られる。
 日向神主家は、犬上朝臣と推定される大岡氏であった。元仁元年犬上大岡宗誠が、はじめて日向神主に任じたと系図にあるが、詳細は不詳である。
 山田神主は、織田氏の一族で平姓をとなえている。しかし、織田氏の庶流であれば、忌部宿禰姓であろうと考えられる。織田敏定の子飯尾近江守定宗が多賀大社社司となった。定宗はまた、尾張奥田城主であり、永禄三年五月に討死した。社司職は嫡男の信宗がつぎ、奥田城主はその弟重宗が継いだ。ところで、定宗は『多賀神社史』では、大神定宗とあり、信宗の子宗敏の子となっているが、これは年代的に疑問が残るものである。いずれにしても、織田氏の一族飯尾定宗が多賀大社宮司を務め、山田神主大賀氏の系図に取り込まれたものか。
【虫喰折れ柏(文中:祭礼のときに使われる実付き三つ柏)】


■山田神主家参考系図

織田氏系図は種々あるが、『古代氏族系譜集成』所収の「忌部氏系図」を底本として掲載。山田神主家は織田氏の一族とする説があることは本文に記した通り。




[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]