家紋 松尾神社

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秦氏/伊岐氏


 松尾神社は、大宝元年(701)秦忌寸都里が初めて社殿を築き、天平二年(730)大社に預るとある。
 延喜式の神名帳に「松尾神社二座」とあり、名神大社で、月次・相嘗・新嘗・祈年の奉幣に預っている。二座というのは祭神の数で、大山咋神と市杵島姫命を祭っている。大山咋神は大国主神の子で、古事記に「大山咋神、亦名は山末之大主神、此の神は近淡海の日枝山に坐す。亦、葛野の松尾に坐す鳴鏑に成りませる神なり」とある。この大山咋神は南の乙訓郡で火雷神とされ、日吉神社では比叡神のちに山王と称した。「成鏑に成る」というのは、丹塗矢から生れたということで、『泰氏本系帳』に、

 初め秦氏の女子、葛野河に出で、衣裳を灌濯す。時に一矢あり、上より流下す。女子これを取りて遷り来、戸上に刺し置く。ここに女子、夫なくして妊む。既にして男児を生む。………戸上の矢は松尾大名神これなり。………而して鴨氏人は泰氏の婿なり。

とある。この伝承は、古事記に大神神社の祭神大物主神の神婚譚としても語られるが、さらに賀茂建角身命の娘玉依姫の場合も同巧異曲で、その生まれた子が賀茂別雷命であるとする。葛野はのちの葛野郡で、古くは葛野鴨県主がおり、子孫が賀茂の社家となった。葛野の地は帰化系の秦氏が多く、太泰の広隆寺は泰氏の建立した寺として有名である。市杵島姫命は、筑前の宗像神社、安芸の厳島神社の祭神でもある。
 松尾神社の伝統としては、大山咋神が松尾山の頂に坐しまして、山下の田園を守護するものとする。そうして賀茂神社とともに京都の守護神として仰がれ、崇敬されたのである。
 松尾神社の社家としては、さきの秦氏本系帳には、養老二年(718)秦忌寸都駕布が初めて祝となって以来、秦氏が歴代神主となって奉仕したという。事実、松尾神社の社家には神主の東家、正禰宜・正祝の南家が秦姓である。しかし、実権は摂社月読宮長官の中臣系伊岐氏(松室家)が執り、松尾祠官を兼ねていた。
 さて、神護景雲元年(767)山城のうちに神封二戸を奉られたが、承和四年(847)以来たびたび神の崇りが現われたため、貞観八年(866)正一位の極位に叙し、のちに勲一等を追贈された。寛弘元年(1004)一条天皇の行幸後、歴代の行幸十度に及ぶ。平安時代以降二十二社に列し、上七社の一に数えた。近世になって九百余石の神領が寄せられていた。
【葵(祭礼の幡に据えられた紋)/中:神社の帽額に見える紋】




■社家秦氏(上)/伊伎氏(下) 参考系図



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]