家紋 貴船(貴布禰)神社

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鴨県主家


 賀茂川の奥は鞍馬川と貴船川という二つの渓谷に分かれ、その二つの渓谷を両裾とした山が鞍馬山で山中に鞍馬寺があり、貴船川の西に群がる山なみが貴船山である。しかし、これらの峰々は総称して鞍馬山と呼ばれている。
 鞍馬寺から小径を西にとって、貴船川を渡ると山懐に貴船神社が鎮座している。賀茂川の川上にあるところから河上神とも呼ばれ、賀茂神社とともに成立した。というよりも、上賀茂の雷神信仰はここから起こったものかも知れない。京都に降る雨は鞍馬山で発生すると考えられ、それを北山時雨といったが、そこに鎮座する神はやはり雷神と考えられたに違いない。
 貴船神社は貴布禰または木船とも書き、祭神を鞍馬山の龍神高神(一に闇神)といい、雨水を守護する神とされるが、都が奈良にあったころには、吉野川の山中にある丹生川上神社が雨乞いの神とされていた。しかし、都が平安京に遷されてからは、貴船神社が丹生神とともに新たに雨乞いの神となったのである。
 平安遷都からほど遠からぬ弘仁九年(818)に、貴船は大社とされていることから、それ以前にすでに祈雨・止雨の霊験があらたかであったのだろう。ちなみに、雨を祈るときは黒馬、止雨を祈るときは白馬を謙譲するのが例で、のちに祈晴のときは赤馬をも加えたという。


貴船神社点景


拝殿/鳥居/山門/ちのわ(撮影:山根章善氏)

 『延喜式』の制では名神大社とされ、月次・新嘗・祈年および祈雨の奉幣に預かっている。嘉承元年(1106)四月、上賀茂社が炎上したとき、その御神体を貴船の本殿に移し、貴船の御神体を若宮に移した。一時的なことながらこれも賀茂社との因縁を示す例であり、いまはないがかつては境内には鴨岡本神社があった。永治元年(1141)累進して正一位を贈られ、のち二十二社の一に列した。
 嘉保元年(1094)十一月、鞍馬の住人と賀茂の神人との間に争いが起こり、怒った神人らが貴船神社を破壊し、神宝を奪い、さらに鞍馬の在家を襲うという乱暴を働いた。このため貴船の御神体は一時上賀茂社に移された。ところが、弘治二年(1556)京中に咳病がはやり、なかでも多くの子供たちが死亡した。卜占の結果、貴船神の崇りとされたため、勅して疫神払いをなさしめた。社殿の復興や神体の遷座はこののち間もなく行われたであろうが、寛永八年(1631)十一月に至って盛大な正遷宮が行われた。
 なお、疫病沈静ののち、毎年九月九日、小さい神輿を少年たちにかつがせて貴船神社に参詣する例にしたという。近世に入って、貴船神社の朱印領はわずか三石が寄せられただけであったが、明治に至って古来の名社たるをもって官弊中社に列した。
 貴船神社に奉仕した禰宜・祝は上賀茂社との関係から、賀茂の社家である賀茂県主家から出て職に任じた。また、その神紋も賀茂社と同様に「葵の葉」であり、併せて水を表わす「巴紋」も用いている。
【葵の葉/三つ巴】




■社家賀茂県主家 参考系図
 世襲という形ではなく、鴨県主家から出た神職が任じている。





[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]