家紋 石上神宮

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物部石上氏


 神武天皇東征の折国土平定に偉功をたてた霊剣(平国之剣、フツノミタマ)とその霊力を布都御魂大神と称し、また饒速日命降臨に際し天神から授けられた鎮魂の主体である天璽瑞宝十種とその起死回生の霊力を布留御霊大神と称し、この二神を物部連の遠祖宇摩志麻治命をして宮中に奉斎せしめた。
 その後、崇神天皇七年に物部色香色雄が勅を奉じて、現在地の石上布留の高庭に遷し祀った。さらに、物部首市川臣が勅を奉じて、素戔鳴命が八岐大蛇退治に使用した天羽羽斬剣(十握剣)と、その威霊である布都斯御魂大神を併祀し現在に至っている。
 このように石上神宮は、武門の棟梁たる物部氏の氏神として古代史上重要なる地歩を占め,また鎮魂の社として朝野の人々から並々ならぬ信仰を集め,伊勢の神宮と並ぶ日本最古の神宮である。『記紀』に石上神宮.石上振神宮と記され、『延喜式』では、石上上坐布部御魂神社として、また通称石上社、布留社とも呼ばれた。貞観九年(867)に神階正一位に昇叙されている。
 中世に入り、興福寺の荘園拡大とともに、その勢力下に包括され社運は次第に衰退した。同宮の北を流れる布留川の恩恵を被る地域を布留郷と呼び、同宮を宮本と称して、氏神の尊厳と一郷の平安のために団結を固め、興福寺とたびたび抗争を繰り返す布留守郷一揆が頻発した。
 やがて戦国期に至り、他国武士の大和攻略が激化し、織田尾張勢の乱入により社頭は破却され、社領千石と称した神領も没収された。その後は、布留郷を中心とした氏子の力強い信仰に支えられ,明治維新に至った。
 石上神宮にはかつて本殿がなく、拝殿後方の聖域(禁足地)を御本地と称し、その中央に主祭神が埋斎され他の諸神は拝殿に配祀されていた。明治七年、ときの大宮司菅政友が教務省の許可を得て禁足地を発掘し,御神体の出御を仰ぎ、その後禁足地後方を拡張して大正二年に現在のような本殿が竣工された。
 禁足地は現在も布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれ、昔の佇まいを今に残している。また、石上神宮の神宝である国宝七支刀は有名なものである。
●神宮内の堤灯には「菊」紋が描かれている(右図)

●社家、石上氏

 石上神宮の社家は、宇摩志麻治命を祖神とする物部氏の一族石上朝臣が、古くよりその職に奉仕していた。また、祭祀の方は、孝昭天皇系の春日市川が仁徳天皇のとき神主となり、その子孫が物部氏を称し、のち布留氏と改めて、永く神主をつとめた。
 物部氏は五世紀前半から大和朝廷の中でも、造・首などの姓をもつ配下を従えて、同世紀後半の雄略朝には大伴室屋とならんで、朝廷内で武力の中核をなしていたと考えられている。六世紀前半の物部尾輿は、大伴金村とともに大連となって政治の主導権を握り、当時の国内の紛争や朝鮮問題に対し武将として重きをなし、特に筑紫国造磐井の乱を鎮定して功をたてた。
 尾輿の子が蘇我氏との排仏論で有名な守屋である。守屋は蘇我馬子と対立して、河内の渋川の本拠を攻められ、戦死し、物部氏の本宗は滅亡した。とはいえ、その後物部一族は聖徳太子に登用され、壬申の乱では物部朴井雄君が大海子皇子の舎人として功をたてた。また、天武天皇十三年八色の姓の制定に際して、麻呂のとき物部氏の本拠である石上神宮の所在地にちなんで石上朝臣と改姓した。ただし、この改姓は本宗に限られ、氏人や旧部民の有力者には依然物部姓を名乗るものが多かった。
 麻呂の孫宅継は大納言となり、文人としてもすぐれ、晩年は自邸に芸亭を設け、書籍をおいて開放し、日本最初の公開図書館とした。宅継の弟が物部朝臣息継で神祇少伯・大宰大弐を務め、その子振麻呂は石上神宮典鑰となり、以後かれの子孫が石上神宮の祭祀を務めた。
 石上氏は、九世紀以降次第に衰微していった。また、石上神宮に奉仕した物部氏も中央で活躍することはなかった。後裔から、豊井・布留川・巽・上田・菅田・森・乾・堤・中山・岸田氏らが出ている。
【上り藤】




■社家物部石上氏参考系図





[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]