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伏見稲荷神社
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泰氏/羽倉氏
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山城風土記に以下のような伝説が載せられている。
泰中家忌寸らの遠祖泰公伊呂具は富者であった。あるとき餅を的として矢を射たところ、餅が白鳥になって飛びかけり、三が峰の山上に止り、そこに稲が生じた。不思議に思った伊呂具がそこへ神社を建て、伊奈利社と名付けた。
これが稲荷神社創建のいわれで、二十二社註では、これを和銅四年のこととする。イナリはイネナリ(稲生)が転じのちに稲荷の漢字をあてたものである。稲荷神社にある古い神影では、老翁が稲束を肩に担った姿が書いてあるが、これは稲荷の字からの連想であろう。
伊呂具がはじめ祭ったのは山上の社殿で、泰氏の祖神であったろうが、稲荷の語から穀物の神である倉稲魂神が主祭神となり、山上の祭神を猿田彦命、山中を倉稲魂神、山下を大宮女命とし、上社・中社・下社の三社三座ととなえた。泰氏の本拠は太泰の地でそこの広隆寺は泰氏の氏寺であり、松尾神社が氏神であるが、酒造を業として富を築いた一族が伏見に稲荷神社を建てて崇敬したのである。
猿田彦命は道開きの神で、神像を描くときは赤顔の天狗とする。大宮女命は調和の神である。上中下の山というのは三が峰のことで、稲荷山の中腹にあたり、三社はそれぞれ二百メートルばかりの距離にある。この神域は奥の院とされ、現在は神苑で各所に赤い鳥居が立ち、また本殿からこの奥の院に通ずる道は、俗に千本鳥居と呼ばれ、鳥居がトンネル状に並立している。
社殿が現在の地に営まれたのは、弘仁七年(816)空海の奏請による建立とされ、空海は稲荷神を教王護国寺の鎮守とした。本殿に奥三社の神を合祀したのであるが、延喜式神名帳に「稲荷社三座」とあるのはこれである。延喜式に名神大社とされ、祈年・月次・新嘗の奉幣に預っている。のちに摂社の田中神・四大神を相殿に加え。平安時代後期には、稲荷五社大明神と呼ばれた。なお、稲荷山全体の地主神を荷田の神という。
天長四年(827)従五位下を授けられて以来、稲荷神の神位は累進して天慶五年(942)正一位に進み、のち二十二社の上七社のうちに列した。
神職には神主・御殿預・目代・禰宜・祝などがあり、泰氏の子孫が代々奉仕して、西大路・針小路・大西・松本・祓川・羽倉・毛利などの諸家となった。ただし羽倉家だけは、泰氏とは別に荷田宿禰姓を称し、雄略天皇の後裔というが、泰氏の分流であろう。東西の羽倉家に分かれている。江戸時代の国学者荷田春麿はその一族から出た。
豊臣秀吉は、社領百六石を寄せ、江戸幕府もこれを踏襲した。秀吉はまた天正十七年(1589)稲荷社を造営し、徳川綱吉も元禄七年(1694)造営に尽くしている。
稲荷信仰では、神木である杉と、神使である狐が有名である。稲荷神に祈るものは、杉の木を植えて成育すれば吉、枯れれば凶とされ、詣でるものは神域の杉を折りかざして家に帰る風があり、これを験の杉といった。また神仏習合思想から稲荷神は、咤枳尼天とされ、招福除災・財富蓄積の神となって、商売繁盛を願う多くの人々が詣でた。全国に分祀社約三万五千といわれ、分祀社の多いこと神社のうち第一番とされる。
【抱き稲】
■社家泰氏(上)/荷田氏(下) 参考系図
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