家紋 広瀬神社

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物部姓曾禰氏/片岡氏


 崇神天皇九年廣瀬の河合の里長に神託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地に社殿が建てられて祀るようになったと伝わっている。鎮座地は、『日本書紀』に「廣瀬の河曲」、『延喜式』祝詞には「廣瀬乃川合」と記されているように、佐保川・初瀬川・飛鳥川・曽我川・葛城川・高田川等、大和盆地を流れるすべての河川が一点に合流する地に祀られており、ここから大和川となり大坂の地に奈良の水を流し出す所である。この地は低地となっていて、奈良盆地が湖であったころは、生活ができる水辺の限界であったと思われ、前記のような話が伝わったものであろう。
 『日本書紀』には天武天皇四年(675)四月十日に、「遣小錦中間人連大蓋。大山中曾禰連韓犬祭大忌神於廣瀬河曲」と、記録されているのが最初で、これ以降、毎年四月・七月に使いが派遣され、大忌祭が南北朝時代まで行われたと記録にある。
 祭神は、神話に穀物の神として登場する倉稲魂命で、『延喜式』祝詞の廣瀬大忌祭に「廣瀬の川合に称辞竟へ奉る………御膳持たする若宇加能売命」とあるワカウカメノミコトである。併せて櫛玉姫命・水穂雷命を配祀する。また書紀の記事に「大忌神」とみえるのは祭神名を忌み慎んで称したものである。
 廣瀬神社は河川の合流地点に祀られていることから、治水の神で、山谷より下る水は荒々しい水で、農業に適さないことから廣瀬の神が良水に変え、風雨を調和し、苗稼を浸潤して五穀の豊饒を守り、朝廷を始め、万民の食事を守る御膳神であり、また河川の氾濫を防ぐ神であった。
 『延喜式』神名帳には明神大社で、月次、新嘗の官幣に預り、国家の重大事等のときには特別に奉幣する畿内神社十六社の内に加えられ、昌泰元年(898)に二十二社制度が起こると、中七社の内に加えられた。  廣瀬神社は龍田の神とともに、陰陽の神としても崇敬され、龍田を風神、廣瀬を水神として祀られた。これにより、天武天皇の代に始まった廣瀬大忌祭、龍田風神の祭は朝廷より同位の使いが遣わされ、同日同時刻に祭典が行われたと伝えられている。
 室町時代には、御位田八十町、相殿及び摂社の三座に各二十町のほか、神戸等を併せておよそ五百余町を保有していた。しかし、永正年間に室町幕府管領の家臣が大和に乱入するにおよび社領は押領され、また本殿等がその折の戦乱で全焼し、さらに天正年間には大和大納言豊臣秀長に没収され、社領は縮小し廣瀬神社は衰退した。江戸時代には郡山城主の崇敬を受けたが、旧には復さなかった。
 社家は、書紀にみえる物部氏族の曾禰氏が相承し、中世には樋口氏を名乗り、のち片岡氏とも称して戦国のころは武士としても力を有していた。
 ところで、廣瀬神社の「砂かけ祭(御田植祭)」は奇祭として知られる。拝殿前の広場に青竹を四本立て、注連縄を張り臨時の田んぼを作る。ここに田人と牛に扮した者とが出て、田作りの所作をする時に、参拝者が広場の砂を田人・牛に掛ける。それに対し田人・牛が参拝者に掛け返すことから「砂かけ祭」と呼ばれる。この行事中暴れ方が激しいほど豊作になるといい、砂は雨になぞらえ掛け合いが盛んであるほど雨が多く降るといわれている。
【橘】




■広瀬社神主曽祢氏系図
・「河合町史」所収系図より作成。内容に関しては、そのままに受け取れないところ もあるが参考として掲載。

  



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]