家紋 平野神社

アイコン
平野流卜部氏


 延暦十三年(794)平安京遷都に際して、京外の北方に、大和国に奉斎されてきた今木神.久度神・古開神を遷座・勧請したことにはじまる。のち、承和年間に至って比口羊神を奉斎した。
 京都の平野の地への遷祀以前の三神は、今木神が平城京の田村後宮に祀られ、久度神は大和国平群郡鎮座の式内社久度神社の神霊として祀られており、ここに古開神も併せて祭られてきた。平野神社は「平野神宮」とも称され、その格式は高く、皇太子の親紙幣を奉る皇太子守護の社とされてきた。その祭祀には二人の神主が、同時にそれぞれ今木神と久度・古開神を祀っており、神社祭祀の形態としては異例といえる。それは、桓武天皇の外祖父・外祖母それぞれに由縁のある神を合祭・合祀したことによる。
 桓武天皇の母高野新笠は田村後宮に今木神を祀ってきたが、これは父方(天皇外祖父)和氏の神だった。同様に母方(天皇外祖母)土師氏の神だったのが、久度神であろう。桓武天皇は外戚の父方・母方の氏神を合祭して新しい都の皇太子守護神とし、桓武天皇子孫への皇位継承を確実にしていくために創始された。
 社伝では、桓武天皇の母高野新笠の先祖百済の聖明王にゆかりの遠祖仇首王を久度神とし、古開神を古の沸流王と開を肖古王にあてている。
 平野社創祀以前の延暦元年(782)今木神は従四位上、翌年久度神は従五位下となり、平安遷都後も順調に神階叙位が行われ、貞観年間には今木神は正一位、久度神・古開神は正三位、新たに加わった相殿の比口羊神は従四位上に昇叙した。延喜式の制において四座の神とも名神大社、折年・月次・新嘗の班幣に預り、十世紀に入ると十六社奉幣の対象神社に加えられ、朝廷の崇敬は篤かった。円融天皇の天元四年(981)には初めて平野社行幸が行われ、一条朝から恒例化した。
 同社の預には卜部平麻呂が任じられ、以来その子孫が神社官人の職を兼ねて奉仕し、平野流卜部氏として継承された。中世には『日本書紀』の家として有名であったが、室町時代に入ると吉田流卜部氏が隆盛し、平野流は衰退していくことになる。
 室町時代後期の平野流卜部兼永は吉田流卜部兼倶の二男に生まれて、兼緒の養子となり平野流を継いだ。兼永は神道のことごとくを父兼倶より相伝し、古典についてもなかなか造詣があった。しかし、その性格は意地っ張りで、志操堅固であったため、父兼倶との仲が悪く、訴論が絶えず、時には幕府の裁決を仰ぐという始末になり、ついには、父子の縁を絶つまでとなった。
 この対立は、一家内を両流に分立せしめ、吉田流兼政・兼満・兼右の代までも続き、互いに嫡庶・正統を荒そう原因ともなった。とはいえ、かれは『延喜式』神名帳の諸社や祭神を卜部流で訓んだ『延喜式神名帳秘釈』を著わし、『旧事本紀』『唯一神道名法要集』を自写し、これら古典の講明にも努力したことは注目される。功罪はあるにしても、兼永は父兼倶の没後、弟の宣賢とともに、二十数年間にわたって吉田家の学問の伝統をよく守ったことは間違いない。
 吉田流との嫡庶・正統の争いは吉田兼見が表われるにいたって、兼見は「神祇官代」の地位を得、また時の権力者との親交も巧みであったことから、平野流は吉田流の後塵を拝するかたちになっていった。このことは、神社の地位にも影響を与え、江戸時代、吉田流が祠官を務める吉田神社が社領百九十石であったのに対して、平野社は百石を数えるのみであった。
【桜】




■社家卜部氏参考系図





[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]