家紋 日吉大社

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生源寺/樹下氏


 日吉大社は比叡山の東麓、延暦寺の門前町でもある坂本に鎮座する。「日吉」は、古くは「日枝」「稗叡」「比叡」等と表記し「ヒエ」と訓んだが、平安後期頃より「ヒヨシ」とも称するようになった。
 西、東の本宮があり、東本宮には比叡山の山の神である大山咋神を祭り、大山咋神は日吉大社の元来の祭神、すなわち地主神である。『古事記』に「大山羽咋神は亦た山末之大主神と名づく。此の神は近淡海国の日枝山に坐します。亦た葛野の松之尾に坐します。」とあるように、京都の松尾大社の祭神と同神とされる。  一方、西本宮は、社伝によれば天智天皇の創祀と伝え、天智天皇の大津京遷都に伴い大和の三輪山の神を勧請したものとされる。
 貞観元年(859)には、従二位大比叡神(西本宮祭神)に正二位、従五位下小比叡神(東本宮祭神)に従五位上が奉授されている。日吉大社は『延喜式』「神名帳」には、「日吉神社・名神大」の一座のみがみえているが、この一座は西本宮を指すものであろうと考えられる。平安時代、仁和年間には、既に聖真子(現、宇佐宮)が祀られており、この三社を総じて「三聖」と号した。
 最澄の延暦寺開創以後、日吉大社は「山王権現」とも称され、延暦寺の鎮守神・天台宗の鎮護神として位置づけられた。なお、山王の号は中国の天台山国清寺に祀られた「山王元弼真君」の名に由来する。平安中期以降は延暦寺の権門の興隆に伴い神威が喧伝され、山門の嗷訴に日吉神の御輿が奉戴されたことは有名である。平安末期には、三聖に八王子(牛尾宮)・客人(白山宮)・十禅師(樹下宮)・三宮を加えた三王七社の規模が整えられ、さらに三王二十一社、社内百八社、社外百八社の制へと発展していった。また、全国各地の延暦寺領・日吉社領にも分祀されていった。
 天皇や院の行幸も相次ぎ、二十二社奉幣に加列し、日吉祭は朝廷から祭使の差遣わされる公祭の殊遇を受けた。鎌倉時代には天台宗の手により、山王神道の教説が組織され、神仏習合思想の一大根拠地となった。
 日吉大社の社司は加茂県主の同族と伝えられる祝部宿禰が、代々継承してきた。その祖は神皇霊産尊とし、天智朝のころの宇志麻呂のときに大比叡神を祀り、祝部宿禰を賜った。以後、その子孫が奉仕をした。十世紀に至って、左方と右方の二流に分かれ、それぞれ大比叡神、小比叡神の禰宜を務めた。のちに左方は生源寺を称し、右方は樹下氏を称した。
 しかし、延暦寺の支配下にあっては、天台座主が検校職を兼任し、社家はその配下に置かれていた。とはいえ、両家ともに連綿と代を重ね、いずれも明治維新に至るまで日吉大社の社家として続いた。

●日吉丸伝説

 ところで、戦国時代、とある武士が傷ついて日吉神社の付近にやってきた。いかなる理由があったのかは分からないが、その武士は神職の樹下氏を頼ってきたものであった。樹下氏は娘をあてがって武士を介抱させたが、やがて二人は愛しあうようになり、男子が誕生した。生まれた男子は日吉丸を名付けられた。しかし、その武士は傷がもとで五体不自由となり、尾張の人であったとみえて、国へ帰っていったという。
 秀吉は尾張の百姓の子に生まれたというのが定説である。しかし、秀吉の成長過程には日吉社との深い関わりが見い出せるのである。第一に日吉丸の日吉は日吉大社によったと解され、第二は、長じて名乗った木下の称は樹下をヒントにしたものではないだろうか。さらに日吉丸のことを「猿」と呼び捨てた人は多かったと諸諸書に見えるが、秀吉はむしろ鼠に似ていたといわれる。猿と呼び捨てられたのは、日吉神の神使とされた猿のことにあてたのではなかろうか。
 織田信長が比叡山を焼き討ちしたとき、秀吉は明智光秀とともに積極的ではなかったことは知られている。人殺しを厭ったこともあろうが、日吉との関係の深さもあったのではと想像することもできる。このとき、日吉大社は大被害を被ったが、秀吉はのちに大修築を行っている。
 以上のことに関して、明治四十五年発行の『歴史地理近江号』に興味深い記事が載っている。「日枝神社の祀官を生源寺、樹下の二氏とす。一大宗より分かれ、久しき渉りて、迭立の勢を為す。樹下氏は伝ふ、秀吉は樹下の血統に出ず」「樹下氏の女、入って命婦となり、日輪懐に入ると夢みたることあり。間もなく故ありて尾張に来り、秀吉の父に嫁して、秀吉を生めるなりといふ」と。
 これらのことが、どこまで、史実を伝えているかは不明である。しかし、英雄豊臣秀吉の素性に思いを馳せるとき、なかなかに興味深い話ではなかろうか。
【葵】




■社家生源寺/樹下氏参考系図




[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]