小野氏

 地名としては全国に分布し、早くに開墾された小さな平野、山裾に広がった比較的小規模の傾斜地といった地形から生まれたたようだ。また、単に「野」であったところを御・尾・織などの美称佳字「オ」を付して「オノ」と呼ばれるようになったとも考えられる。名字としては古代豪族春日氏族系の小野氏が知られる。現在、小野姓は大分県で一位、岡山県で二位を占め、東北の青森・秋田・宮城県で上位を占めている。
 春日氏族系の小野氏としては、近江国滋賀郡から起こった小野臣、山城国宇治郡小野郷から起こった小野臣が知られ、近江小野臣は山城小野臣の分流であろうとされている。近江小野臣からは推古天皇のとき最初の遣隋使となった小野臣妹子が出て、子孫はおおいに栄えた。妹子の孫毛野は天武朝に仕え朝臣姓を賜り、玄孫岑守は太宰大弐に任じ「凌雲集」を撰した歌人としても知られる。
 岑守の子が有名な小野篁で、詩才があり法にも明るく「令義解」の編纂に加わった。遣唐副使に任じられたとき大使と争って乗船しなかったため、隠岐に流されるということもあったが、のちに許されて参議に昇った。篁の孫好古は藤原純友の乱の鎮定に活躍、太宰大弐、参議を歴任した。好古の弟道風は藤原佐理・藤原行成と並んで三蹟の一人に数えられる能書家であった。我が国における絶世の美女の代表的存在で、六歌仙の一人小野小町は篁の孫道貞(良真とも)の女といわれている。
 小野氏は藤原氏が台頭してくると中央政界での勢力を失い、地方官として東国に下るものも出た。その一人が篁より 八代の孫にあたるという武蔵守孝泰で、孝泰は武蔵国多摩郡横山に土着して武蔵七党として知られる東国武士団のうち 横山党、猪俣党の祖となった。横山党からは横山・椚田・海老名・藍原・山口・愛甲・平山・小野・古庄・中村・小俣・ 本間・成田・中条・横瀬の諸氏、猪俣党からは中村・河勾・甘糟・藤田・岡部・男衾の諸氏が輩出、源平合戦で 源氏方として奮戦、戦国時代まで勢力を保った家も多い。江戸時代に編纂された寛政重修諸家譜には武蔵七党系の 小野氏が多く、丸に橘・三つ星などの家紋を用いている。

■小野氏参考系図
系図
 一方、小野篁の子良真は出羽守に任じられ、奈良朝から平安朝にわたり奥羽の国守となり奥羽に子孫が広まった。塩釜神社社官の小野氏も、春日氏族の流れという。また、白河・安積・柴田などに小野郷、宇多・桃生・雄勝・志田などに小野の地名があり、それらの地より起った小野氏も繁衍したことから東北地方に小野姓がおおいに広まった。
 小野の地名は全国に分布していることもあって、春日氏族系小野氏以外の小野氏も多い。清和源氏系の小野氏としては、陸前国志田郡小野村より起こった斯波氏流小野氏は大崎家貞が小野村に居を舞えて小野御所と呼ばれたことに始まる。常陸国那珂郡小野村からは佐竹義人の子右衛門佐義森に始まる佐竹氏流小野氏が出た。信濃国諏訪郡小野からは村上実時に始まる小野氏、伊勢の小野氏は平賀義信の子小野三郎朝信の流れ、近江国滋賀郡の小野からは新田氏流羽川氏の後裔を称する小野氏が出た。藤原氏系の小野氏も多く、藤原師輔の子小野三位遠度の後裔、御子左流藤原長家の子小野中納言祐家、藤原氏御子神氏系の小野氏などが知られる。その他、桓武平氏貞盛の後裔国盛に始まる小野氏、三河国には橘高親を祖とする小野氏、京都では春原氏族の小野氏。豊後の小野氏は紀臣長谷雄の後裔巌首の流れといい、子孫は豊後一国に繁衍した。
 神官にも小野姓は多い。有名なのは出雲国の古社日御碕神社の神職小野氏、天葺根命を祖とする日置姓で神代から現代に至るまで連綿と家系を伝え、明治時代には男爵に列した。他にも越後岩船神社、さきの陸前塩釜神社などにも小野姓がみられる。
 小野氏の家紋はといえば、神職系の小野氏では「梶葉」紋が多く、橘氏系小野氏が橘紋・桐紋、清和源氏系では三つ巴紋・笹丸紋、藤原北家流では橘・桐・鷹羽紋などが用いられている。小野氏の場合、出自も多彩で異流も多いことから家紋も一様ではない。


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小野氏



●左から/立ち梶の葉/石持ち立ち梶の葉/中輪に変わり梶の葉/丸に一枚柏/唐木瓜




戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ
家紋イメージ


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