近藤氏

 近藤は佐藤・斎藤と同じく名字に「藤」が付いていることから、出自は藤原氏といわれる。藤原秀郷の後裔脩行が近江掾となり、やがて土着した。そして、官名の「近」と藤原の「藤」とを結び付けて近藤太と称したのが近藤氏の始まりである。脩行の孫景親は駿河権守となって近江から駿河に赴任し、子孫は駿河から遠江・伊豆・相模に広がった。現在、近藤姓の分布をみると、 徳島県で一位、愛知県で二位、愛媛県で三位を占め、四国、東海地方に多いことが知られる。
 さて、駿河に赴任した景親は島田郷に土着して島田氏を名乗ったようで島田権守とも見え、その子景重は島田八郎大夫を称した。景重はやがて伊豆に移住し、平治の乱において源義朝に従って戦死している。景重の子が国澄で、『尊卑分脈』に近藤八として見え、『源平盛衰記』には「伊豆国住人近藤四郎国澄」とある。その子国平は『源平盛衰記』や『吾妻鑑』に、いずれも「近藤七国平」と記されている。国平は頼朝挙兵に参加して活躍、頼朝が鎌倉に居を構えると側近の一人となった。文治二年(1185)中原氏とともに上京し、畿内十一ケ国にわたる武士の乱暴狼藉を鎮定するために活躍している。さらに、正治元年(1199)には、後藤基清に代わって讃岐国守護職に任じられている。 承久の乱が起こると京方に味方したようで、乱後、正史のうえから姿を消したが、国平の子国重は甲斐国に蟄居したという。

■近藤氏参考系図


 国重は浅間神社神主職を務め、孫の宗光は吉野で戦死、弟国光が家督を継いで子孫は甲斐に住した。戦国期の国義は武田氏に仕え、 国義の跡は武田一族の今井氏から義甫が婿養子として入り清和源氏を称するようになった。
 戦国時代、遠江国井伊谷に「井伊三人衆」と称される武士たちがいた。鈴木重時・菅沼忠久、そして近藤石見守康用の三人であった。井伊近藤氏は駿河に赴任した景親の二男島田二郎景頼の子孫で、直満が三河国八名郡宇利に住し、直満の孫満用が松平氏に仕え康用は満用の孫にあたっている。 康用の子秀用は近藤登介を称し、三方ケ原の戦い、長篠の対武田戦に活躍して子孫は徳川旗本として続いた。 一説に、近藤登之助は国重流甲斐近藤氏の一族石見守信房の子であったとも伝えているが詐称であろう。
 その他、藤原北家冬嗣流で北面の武士となった系統、藤原北家利仁流斎藤氏の分れ、信濃からは清和源氏村上氏流、豊後の三輪氏族緒方氏流、讃岐には藤原中納言家成の後裔讃州藤氏の分れなど、まことに多彩な近藤氏が知られる。戦国時代、小田原北条氏に仕えた近藤氏は相模に土着した景親流の子孫で、後北条氏が滅亡したのちは帰農した。 新撰組の近藤勇は後北条氏に仕えた近藤氏の末葉という。
 近藤氏の家紋は、藤原氏の流れをあらわす「藤」紋が多いが、近藤氏を代表するものとしては「鹿角」紋がある。その由来はといえば、松平清康に仕えた近藤満用の嫡男乗直は、あるとき猟に出た清康に随った。そのとき、鹿一頭をとらえてその角を引き裂いた。康はその勇力に感じ入って、以後「鹿角」をもって家紋とすべしと言葉を頂戴したと伝えている。とはいうものの、「鹿角」は異流の近藤氏も用いており、鹿角が兜の前立ちに用いられたり、鹿皮でできた行縢(むかばき)中世武家の 遠乗りにおける必需品であったことなどから、尚武の象徴として「鹿角」を家紋としたものであろう。  



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●左から/鹿角・陰鹿角・細花下がり藤・六つ瓜に六つ唐花・下がりばら藤






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