池田氏

 池田は文字どおり池の近くにある田を表わす地名であり、満々と水を湛えた稲田も池田と呼ぶにふさわしい風景で あっただろう。地名としては全国的に分布しているが、名字としては、摂津国豊島郡池田、美濃国土岐郡池田から出た 池田氏が繁衍した。中国・四国を中心に西日本に広く分布し、佐賀県で一位、鹿児島県で二位、長崎県では三位と 九州で上位を占めている。
 古代では、上野国那波郡池田郷、邑楽郡池田郷の伊岐太から起こった池田君、阿部氏族からも池田君が出ているが 「オサダ」と読むようだ。上野の池田君は豊城入彦命の後裔をとなえ天武十三年に朝臣姓を賜っている。 また上野池田君の部民から出た池田部がある。和泉国の池田首は『姓氏録』に景行天皇の子大碓命の裔とみえ、 美濃の池田氏は古代豪族紀臣族で紀長谷雄の孫維実が美濃国池田に住して池田を名乗ったというが、 美濃の池田君の後裔と目されている。
 武家では美濃国池田から起こった紀氏流池田氏が知られる。維実より五代の奉貞の妹が源頼政の弟仲光に嫁ぎ、その四男泰政を奉貞が養子として迎え、ここから清和源氏池田氏となった。泰政は美濃池田と摂津豊島の地頭職を兼ね、のちに泰永は摂津を女婿の尾藤時景に、美濃は泰継に継がせたというが系図などでは混乱が見られる。南北朝時代、教依が城館を築き、楠木正行の子教正を養子に迎えて家督を譲った。やがて、細川京兆家に仕えて勢力を拡大、戦国末期には織田信長から摂津三人守護の一人に任じられたが、 家臣荒木村重の謀反によって没落した。

■摂津池田氏参考系図

 摂津池田氏の一族で尾張に移った恒利は織田信秀に仕え、子の恒興(信輝)は信長の乳兄弟として頭角をあらわした。 信長死後、秀吉に仕え小牧・長久手の戦いで嫡男之助とともに討死した。次男輝政は関が原の合戦で徳川家康に味方して、 姫路五十二万石の大大名となり子孫は備前と因幡に分かれて明治維新に至った。しかし、尾張の池田氏は滝川一益との関係から、近江甲賀郡の池田氏とする説もあり、その出自に関しては不明なところが多い。
 近江の池田氏は佐々木氏の分れで『尊卑文脈』に、佐々木京極満信の孫定信が甲賀郡池田にちなんで名乗ったとある。そして、定信の後裔秀雄は信長ついで秀吉に仕えて二万石の大名になったが関が原の合戦で西軍に属して没落したという。子孫は徳川旗本に取り立てられたもの、あるいは藤堂高虎に仕えたものがいる。同じく佐々木一族からは、楢崎長重の子長盛が池田次郎を称している。
 美濃からは紀氏系池田氏とは別に、清和源氏土岐氏流の池田氏が出た。土岐郡池田から出たもので『尊卑文脈』には土岐頼清の子頼忠が池田を号したとあり、「土岐系図」では頼清の子頼世が池田を号したとある。徳川幕臣にその子孫にあたる池田氏がみえ、家紋は揚羽蝶・揚羽丸とある。さらに常陸から起こった清和源氏頼光流の池田氏は、はじめ下間を称して本願寺の執事に任じた。戦国時代、本願寺が織田信長と抗争したとき、下間一門は本願寺方の有力武将として活躍した。その一家である下間頼竜の子重利は徳川家に仕え、池田氏と縁組を結んだことから池田に改めた。
 紀伊からは藤原秀郷流の後裔尾藤知広の玄孫知信が、那賀郡池田に拠って池田太郎を称したことが『尊卑分脈』にみえる。同じ尾藤氏から出た大塚政長は、外家の池田に改め、子孫は徳川旗本として続いた。 
 池田氏の家紋をみると、摂津池田氏は『見聞諸家紋』に「木瓜」紋が見え紀氏流を感じさせる。ほかに「三つ蝶」「向かい蝶」「菊水」なども用いたという。尾張から出た池田氏も揚羽蝶を用いたが、一説に織田信長から拝領したものという。一方、佐々木系池田氏は「釘抜」「蝶」を用いたが、「釘抜」は「目結」が元になったものであろう。下間流池田氏は「丸に桔梗」を定紋としていが、池田に改ためたとき「揚羽蝶」も用いるようになった。尾藤氏流池田氏は「剣梅鉢」「揚羽蝶」を用いた。こうしてみると、出自は異なっても池田氏は「揚羽蝶」が好んで用いられたことがうかがわれる。また、それぞれの家系伝説が微妙に交錯しているのも興味深いところである。


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摂津池田氏 備前池田氏



●左から/池田三つ蝶・横木瓜・三つ竜胆・剣梅鉢・三つ蝶




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