林 氏

 ハヤシはハヤスから転化して語で、ハヤスは映す、栄す、囃す、生やすなどの字が用いられるが、光彩を添え、変化をもたせ、称揚して効果をあげることをいう。木を植えたり、歌舞の調子をとったりして、物事を称揚することは全てハヤスことである。ハヤル(流行する)もハヤスと同義である。ハヤシを「拝志(師)」と書いたのは「ハエシ」と発音したことにちなみ、林はその当て字であった。のちに家のまわりなどに樹木を植えて林が増えたことから、林のある村の意とされるようになった。また、奈良時代「地名は二字の佳名に」ということで、林の地名を「拝志・拝師」と表記するようになったともいう。
 林(拝志・拝師)は山野の多い日本の各地にあり、名字としては北陸から東海地方にかけて多く分布しているようだ。県別でみると、岐阜県でトップの他、富山県で二位、山口県で三位、福井県で四位を占めている。
 古代氏族としては、河内国志紀郡拝志郷から起こった武内宿禰の子孫波多氏族の林臣が知られる。林臣はのちに朝臣姓を賜り河内から近江に広まった。同じく河内国志紀郡拝志郷を名とする大伴氏族の林連があり、志紀郡には伴神社が鎮座している。大伴氏族の林連は山城国葛野郡の上林郷に住み氏神を祀ったとあり、河内の林連はのちに朝臣姓を賜っている。その他、河内からは百済系帰化族の林連、この族で摂津から出た林史が『姓氏禄』にみえている。東漢氏族の坂上氏系から林忌寸が出て、弘仁三年に宿禰姓を賜っている。一方、北野天満宮や下鴨社の社家に林氏があり、古代豪族の流れをひいているようだ。
 武家では加賀国拝師郷を本拠とした林氏が知られる。『尊卑分脈』によれば、利仁流藤原忠頼から起り、代々加賀介に任じられた在地領主で、富樫氏らと同族である。源平争乱期、平家の軍と戦って名をあらわしたが、承久の変で宮方に属して勢力を失墜、南北朝期の内乱で嫡流は没落した。しかし、一族は加賀から越中に広まり、北陸地方に繁衍した。江戸幕府の儒官として有名な林羅山の先祖は加賀の人といい、利仁流林氏の分かれであろうと思われる。秀郷流藤原氏にも林氏が見え、秀郷六世の孫で上野国住人行房が林六郎を名乗っている。また、藤原氏系林氏では藤原南家工藤氏流、肥後の菊池氏族などがいる。

■利仁流林氏参考系図

 清和源氏では源満快の後裔伊那為扶の孫快次が林二郎を称し、小笠原清宗の二男光政が信濃国林村に住して林を称している。また、村上氏族の上野康宗の流れからも林氏が出ている。いずれも信濃から発祥した林氏であり、長野県で五位を占める林さんはこれらの子孫かも知れない。幕末、請西一万石の藩主でありながら脱藩して徳川家のために戦った林忠崇は、小笠原光政の後裔で最後の大名となった人物としても有名である。
 桓武平氏からは上総国鹿島郡林村から起こった大掾氏系鹿島氏から分かれた林氏、三浦氏から出た林氏がいる。尾張の林氏は良峰氏の分かれで立木田高義の曾孫高綱に始まるという。伊予からは越智流河野通有の三男通種が越智郡拝志に住して林を称したといわれ、美濃からは安八郡林村から起こった河野氏流稲葉氏かわ分かれた林氏が出た。織田信長の家老として知られる林通勝は、美濃林氏の一族と思われる。余談ながら、奈良の林が「楢林」氏、東海の林が「東海林」氏といわれる。
 林氏の家紋としては、大名林氏が「三つ巴下に一文字」「三階菱」を用いた。伊那氏系林氏は「三つ巴上に一文字」「開き扇」、利仁流林氏はずばり「林の字」をはじめ「葉陰の菊」「抱き柊」「松葉菱」、河野氏系は「隅切角に三文字」「三つ巴」を用いているようだ。その他、出自が多彩なだけに鶴、桔梗、柏、花菱など多種な家紋が用いられている。


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尾張林 氏



●左から/鶴の丸・林の丸字・五枚笹・桔梗・石持ち剣酢漿草






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