竜造寺氏
十二日足・剣花菱* (藤原姓高木氏流)
*本来の紋という。他に大友氏に戦勝して杏葉も用いた |
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竜造寺氏の出自に関しては諸説があり、たとえば、藤原秀郷の後裔とするもの、藤原姓高木氏とするもの、藤原兼隆の後裔とするものなどがある。いすれにしても藤原姓であることは間違いないようだ。
この名かで最も可能性の高いのは高木氏から出たとするものである。すなわち、大宰大弐を勤めた高木季貞の子季平が竜造寺氏の祖になったというもの。一説に、高木季綱の次男季家が文治二年、肥前国小津郡東郷内龍造寺の地頭職に補任され、龍造寺の地名を名乗るようになったものともいう。
はじめ少弐氏に属し、少弐氏の主力として大内氏と戦っていたが、のちには大内氏に属している。
竜造寺氏は明応元年、康家のときに家和の竜造寺氏と、家兼の竜造寺氏に分かれた。家和の方が嫡流で村中竜造寺氏と称し。家兼の方は水ケ江竜造寺氏と称した。この家兼が、少弐資元に仕えていたわけであるが、大内義隆に攻められ資元が死んだ後、馬場氏の陰謀により肥前に追われることになった。そこで龍造寺氏は少弐氏を離れ、大内氏に走った。
大内氏の後援によって佐嘉城を奪還することはできたが、肥前には親少弐派が多く、けっして安泰ではなかった。しかも、そのようななかで家兼は天文十五年に没してしまった。本家龍造寺胤栄も、少弐冬尚によって佐嘉を追われ、こちらも天文十七年に没してしまった。
そこで。家兼死後、水ケ江龍造寺氏を継いでいた胤信が本家を継ぐことになったのである。このとき、胤栄の弟家就と、胤信の二人が後継者の候補としてあがり、結局、老臣たちの話し合いで胤信の相続となったわけであるが、家就と胤信の二人がクジを引いたと伝えられるほど緊迫したものであったようだ。
胤信はこうして胤栄の未亡人と結婚し、惣領家の家督を継ぐことになったのである。のち天文十九年に、大内義隆の偏諱を受けて隆信と名を改めた。しかし、隆信は平坦なコースを歩んで九州の三強の一つに数えられたわけではない。家臣土橋栄益の謀叛によって肥前を追われるとうこともあった。
帰国後は、大友宗麟と戦わねばならなかった。宗麟が肥前国の守護職を得て、肥前への進出を狙ったためである。決戦は永禄十二年(1569)に行われ、家臣鍋島信昌の活躍によって大友軍の将大友親貞を討ち取ることができた。
ここに、龍造寺隆信の名声があがり、信昌の武名が知れ渡ることになった。肥前一国を従えた隆信は、さらに兵を
筑後・肥後・豊前などに進め、大友・島津と九州を三分する勢いを示し、竜造寺氏の全盛期を現出したのである。
しかし、天文十二年有馬・島津の連合軍と島原で戦い敗死してしまった。子政家は病弱で、鍋島直茂が国事を代行した。
その後、竜造寺氏は歴史のなかに消えてしまった。
■参考略系図
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