山崎の殿さんて、いろいろと代わってんねんで。
 宍粟郡は、秀吉の播磨平定後、しばらく蜂須賀氏が支配。そして、長水城攻めに功のあった 神子田半佐衛門の領地となった。その後、黒田官兵衛孝高に与えられたが、間もなく黒田氏は豊前 12万石移封される。そこで、文人大名として名高い、龍野城主木下勝俊の支配を受ける。
 そののち、関ヶ原の合戦に功のあった池田輝政が、播磨52万石の領主となり、宍粟郡には 代官として中村主殿助正勝を置いた。この人なかなかの善政をしいたとのこと。慶長18年池田輝政が病没。宍粟山崎は四男の輝澄に 分封された。山崎町の城下町としての出発はこの時に始まった。しかし、輝澄の治世26年 めに、国元を守る家老同士による御家騒動が起り、徳川幕府に領地を没収されてしまう。
このあと松井松平氏、周防守康映が泉州岸和田から、宍粟、作用を併せて6万石の大名とし て入封した。康映は宍粟の地に善政をしき、領分もよく治まり「当地の繁栄この時にあり」 といわれた。その領民に歓迎された統治もわずか10年で石見浜田へ所替となってしまった。
 そのあとしばらく天領となり、すぐに岡山池田光政の弟、備後守恒元が宍粟5万石の内3万石を新知さ れることになった。ここに宍粟郡が一郡一領主による一円支配の時代は終わりとなった。し かし、池田氏も恒元の養孫恒行の早逝で世継ぎがなくなり、30年にしてあえなく御家断絶。 そして、山崎は新藩主として本多氏が1万石の大名として入封。明治維新に至るまでこの地 を支配することになった。
 ここまでになんと、8氏が入れ替わり、立ち替わり領主となったことになる。そして、最後は1万石の小大名になってしまった。本当にめまぐるしいかぎり。
 江戸時代の殿さんというのんも大変やってんねー。いやーTXT入力のほうも大変でしたわ。

[山崎]
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