あー、懐かしの『川戸』です!

兵庫県宍粟郡山崎町川戸、観光の対象にもならへん田舎の村。揖保川がおおむかしから倦むことなく土砂を運び続けてでけた洪積地、そんな河原の上に、いつの頃からひとが住みはじめたんかはわからへん。けど、いまもヒソッとひとが住んでいる。
山崎町では、最南端に近いところ。30年代の中頃までは、村のほとんどの家がわら葺き屋根やったなー。初夏になると数えきれんほどの蛍の群舞、夏は揖保川で水遊びする子供の声、秋にはたわわに実った柿や空に群れとぶ赤とんぼ、冬はたんまに大雪がふる、いわば絵にかいたようなふるさとの風景やった。田んぼのそばの小川ではシジミがとれたし、ドジョウもうようよいてた。一面ピンクのじゅうたんにも似た春の蓮華もすごかった。そんな風情も、それいけドンドンの高度経済成長のなかで、いつのまにか過去のはなし。
本当に人間って気づかぬうちに大切なものを、その手からこぼしてしまうねんね。残念やわ。そんな川戸でも小生の故郷でんねん。  
■写真:岩田神社


『播磨国風土記』によると、播磨国の一宮に祭られている伊和の大神がこの地で一夜を過ごした。そのおりに川の音が非常にうるさかった。それで神さんが『川音(kawaoto)』という地名をつけたと記されてます。それが時代とともに訛って『川戸(kawato)』になったんやね。小生は、川音とかいてkawatoのほうが好きやけど。


その『川戸』、小生の知る限り唯一小説に出てくんのんが、司馬遼太郎さんの小説『播磨灘物語(上)』。そのなかの-夏の雲-という章の一節に出てまんねん川戸が。
播磨灘物語は筑前福岡で52万石の大大名になった、戦国時代に美濃の竹中半兵衛と並ぶ軍師とよばれてる黒田官兵衛孝高の物語ですねん(以前NHKでやってた"秀吉"のなかでは伊武雅刀が演じてましたね)。話は官兵衛の祖父重隆からはじまり、父兵庫介職隆、そして官兵衛孝高へと続いてゆきまんねん。その父、兵庫介職隆の出世の糸口となるある合戦の段で、『川戸』が登場してきまんねん。播磨灘物語、読んだことありますか?  
■写真:揖保川

姫路の10数キロ西方に揖保川が流れて、播磨灘にそそいでいる。揖保川は北方の宍粟郡の山中に水源を発し、長流15里、途中渓谷に落 ちる細流をあつめて南へくだっている。途中、ほとんど山中だが、山間の小盆地がいくつかある。北からいえば山崎郷、新宮郷、龍野郷な どがそうだが、その山崎郷と新宮郷のあいだに、香山という在所がある。(播磨灘物語から)……
この香山っちゅう在所に砦をかまえる香山氏が、黒田氏の主筋にあたる、小寺氏に反抗をして乱暴を働いてたわけやね。そこで、兵庫介職隆がいっちょ決めたろやんけと
襲撃の夜は、晦日だから、月はない。星はあった。それも満天の星あかりである。この、山すそを割って流れる川の上流に、川戸という 山村がある。兵庫介はそこに10数艘の舟を用意しておいた。川をくだる部隊は、ぜんぶで100人である。かれらは夕刻から川戸の裏山に 伏せていて、夜が更けるのを待った。(播磨灘物語から)……
その結果、兵庫介は合戦に勝利し、香山庄を小寺氏からあたえられた。併せて、空城同然にすてられていた姫路城までももらえた。兵庫介職隆はん、やりまっしゃんん。いわば、黒田氏の出世の端著となった合戦の、舞台のほんの片隅に『川戸』の名も刻まれていたっちゅうわけですわ。教科書で学ぶような史実ではどうかしらんけどね。

[山崎][川戸の地図]

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