石舞台古墳、あれこれ話


蘇我氏の血脈から初めて大王(いまでいう天皇)を擁立し、一世を風靡する権勢をうちたてた蘇我馬子は626年5月に死んだと伝えられる。馬子の死後すぐ、飛鳥の桃原の地に墓が築かれ始められた。この桃原墓が、石舞台古墳に当たるのではないか、といわれている。石舞台の名の由来については、一般には石の形状からとされているが、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や、この地にやってきた旅芸人が大石を舞台にしたという話もある。江戸時代の「大和旧蹟幽考」「古蹟略考」という書物には、「石太屋(isi_buto_ya)」と呼ばれていたことが記されている。"いしぶとや"の古称が、いつの頃か"いしぶたい"に転化したことがその由来のようだ。この石舞台が全国の人々に知られるようになったのは、1848年に出た「西国三十三所図絵」などによってであるらしい。田んぼのなかに『高凡二間許、周凡十間、大石を以て積重ねしもの也、云々、天武天皇を仮に葬り奉りし古趾なりとぞ』と記されている。当時の旅人も、いったい何であるのか、驚き怪しみながら通りすぎたことだろう。石舞台が学術的に発掘調査されたのは1933(昭和8年)に主に石室調査が、1935には外堤と周湟が調査された。それにより前方後円墳と推測さていたものが、一辺約百七十尺の方墳であることが確認された。この石舞台古墳が、蘇我馬子の桃原墓すると、馬子が死んでから2年のちの状況としても「蘇我氏の諸族等、悉に集ひて、嶋大臣(蘇我馬子)の為に墓を造りて、墓所に次(yado)れり」と古書に記されている。蘇我の氏人らは、それぞれの配下の人夫を動員して叱咤しながら、墓造りを督励していたのであろうか。【資料:「飛鳥/門脇禎二著」】


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