東条川西岸に立つ生誕地の碑
西方寺境内に建立された顕彰碑 (2008年6月13日)
日本酒造りといえば、丹波杜氏の存在がクローズアップされる。そもそも、杜氏とは日本酒醸造における蔵人の親方であり、酒造の最高責任者をいう。丹波杜氏の出身地は多紀郡の村々の農民が多かった。多紀郡の気象条件は冬季における寒気がきびしく、夏場の農業だけでは生活は楽にならなかった。加えて、篠山藩は年貢の取立てが厳しく農民の生活は困窮する一方であった。それらが相俟って、農閑期である冬に酒どころへ集団出稼ぎにいって副収入を得るようになったのである。記録によれば、十七世紀末から十八世紀の頃より農閑期に池田や伊丹に酒造稼ぎに行くようになったことが知られる。
「出稼ぎ」は百日稼ぎと呼ばれ、農民にとって大きな冬の副業となったが、宝暦、天明(1751〜88)のころ、各地で天災が続き、凶作が続いた。藩の役人たちは凶作が続くのは、冬季に農民らが出稼ぎに行って百姓仕事をおろそかにした結果と考え、酒造出稼ぎ禁足令を出した。まことに乱暴な話だが、藩命に逆らうことはできない。困った農民たちは、ついには一揆を起こして藩に出稼ぎを認めてもらおうとした。しかし、一揆は藩によって鎮圧され、首謀者が処刑されるなど農民は大きな犠牲を払った。この窮状を打開するために立ち上がったのが市原村の清兵衛で、清兵衛は藩の役所に嘆願を繰り返したが聞き入れられず、ついに在府の藩主に直接訴えようとして息子の佐七とともに江戸に上った。清兵衛の直訴を受け事情を知った藩主は、ただちに酒造出稼ぎ禁足令を解除したのであった。
農民たちの窮状は救われたが、清兵衛の行為は越訴という重罪であり、本来なら死罪に相当するものであった。
捕らえられた清兵衛は、十年にわたる牢屋暮らしを余儀なくされた。その間、藩の扱いは丁重なものであったといいい、
文化八年(1811)、赦された清兵衛を農民たちは手厚く出迎えたのであった。清兵衛の決死の行動により
、天保年間(1830〜44)になると灘の蔵元のほとんどを丹波杜氏が占めるようになった。そして、
酒造出稼ぎの収入は当時の家計の四分の一を占めたといわれる。明治の最盛期にはその数五千人を超え、
灘五郷はもとより遠く中国、満州へと酒造りに出かけて行った。清兵衛の死後、多くの人々たちによって
その徳を讃える顕彰碑が建立され、その義挙をいまに伝えている。
酒造出稼ぎは三ヶ月以上家族と離れて暮らすこと、酒造り工程の機械化、他産業への就職が容易になったことなどもあって、
丹波杜氏の数は減少傾向にある。
しかし、いまも杜氏として出稼ぎに行く人々は、清兵衛の碑に詣で、よい酒が出来るように誓って蔵入りするという。
取材/撮影:2009年7月4日
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