篠山の歴史・見処を訪ねる-曽地・東岡屋


一揆塚



渡瀬橋と供養塚 (2009年5月27日)


曽地川と篠山川の合流地 ・ 河原の地蔵さま

篠山藩は江戸時代を通じて、百姓一揆の多いところであった。その理由としては、篠山藩は有力譜代藩で、老中、大坂城代など幕府の要職に就く藩主が多かった。当然、出費も重なり藩財政は窮乏、結果、農民から年貢徴収は苛酷なものとなった。祖率も高く、ある村では「七割!」という重いもので、凶作の年であっても祖率の軽減はなかった。一方、篠山の地は丹波高地とよばれると台地にあり、水は溜め池や井堰に頼らざるをえず、冷害や旱魃、洪水なども多かった。藩の苛酷な年貢徴収と、自然災害による収穫減に追い詰められた農民たちは一揆を結んで年貢の減免を求めたのである。
元和七年(1620)の二ノ坪への重祖に対して庄屋たちが越訴したのをはじめとして、おもな一揆としては、明和八年(1771)の全藩一揆、寛政二年(1800)に百日出稼禁止に対する市原村清兵衛らの越訴、万延元年(1860)の一揆など、領内各所において一揆が頻発している。一揆が鎮圧されたのちは首謀者に対する厳しい取調べが行われ、「釣縄」や「水責め」などの拷問が行われた。そして、捕縛されたものの多くは牢死、あるいは死罪となって刑場で命を失った。いまも、篠山川にかかる渡瀬橋の東堤防側に処刑された人々を供養する塚が祀られている。
最後の一揆は明治二年(1869)、強訴をきっかけとして起こった。すでに明治維新後のことであり、三田藩に起こった一揆が成功したとの噂をききつけた立杭村・小野原村の人々が「上納五分引」などを願って藩主に訴状を渡そうとして篠山に押し寄せた。これに多くの人々が加わり、ついに全藩一揆へと発展した。藩は武力で鎮圧しようとしたため、農民との間で激戦が交わされた。そして、農民から176名が捕縛され、首謀者は斬罪などの重を言い渡された。翌年、斬罪の者たちは曽地河原で処刑されたのである。いまも河原のそばには、一揆で処刑された人々を弔う小さな地蔵さんが祀られている。人々が処刑された翌年、廃藩置県が実行され篠山藩は消滅した。ここに封建時代はまったく終焉を迎え、日本は中央集権国家に生まれ変わった。以後、篠山に一揆が起こることはなかった。それから140年、東京一極集中の弊害が叫ばれ、地方分権化の議論が活発化している。
封建主義は地方分権そのものであったが、藩の成立事情によってその政治は二分化していたようだ。すなわち、外様藩と譜代藩の違いである。外様藩は一部の例外を除いて、徳川家とは同格の時代を有し、支配地も先祖代々の土地であった。一方、譜代藩は徳川家の家臣であり、いわゆる公務員が転勤を繰り返すように所替えが多かった。両者の差は明確で、譜代藩の藩主は幕府の要職を務めることが多く、その経費を捻出するため税収の増額を行った。それは、領地との関係が薄いこともあってややもすれば苛酷なものになったようだ。いま議論されている地方分権化が、官の押し付けで成立すれば、江戸時代のように一揆が繰り返されることになるかもしれない。
取材/撮影:2009年7月3日