篠山の歴史・見処を訪ねる-曽地・二ノ坪


柿の木地蔵





柿の木地蔵とそのアップ


柿の木根元の古い供養塔

江戸時代はじめの元和七年(1621)、篠山東部地方は日照りが続き、田畑の水にも事欠くありさまで収穫も絶望的状態であった。食べるものに窮した人々は、木の芽や草の根を食べて飢えをしのいだが、ついに食べ物がなくなり餓死者が続出するようになった。やがて秋になると天の恵みか柿が大豊作となり、人々は柿を食べて露命をつなぐことができたのである。ところが、年貢の減少に苦慮した篠山藩は、「本年は作物不作につき、柿を年貢の代用として納めるべし」との通達を村々に発した。まことに武士階級というのは現代の役人と一緒で、民の困窮を後目に税金を徴収することを優先した。
困った村人たちは、庄屋の重兵衛の家に集まって善後策を協議した。しかし、年貢を怠れば咎めを受けることは火を見るよりも明らかであり、いまは辛抱するしかないということになった。とはいえ、このままでは餓死者は増えるばかり、思いあぐねた重兵衛は志を同じくする庄屋たちと相談して、京都所司代に窮状を訴え出ることに決した。そして、ひそかに村を出て京に上ると、所司代に願い文を達することに成功した。願いは聞き届けられ、年貢として柿を収めることは沙汰止みとなったのであった。
村人たちの窮状は救われたが、藩主は激怒した。もとより、重兵衛らの行為は「越訴」とよばれるもので、事の成否に関わらず「死罪」に相当するものであった。篠山藩に送り帰された重兵衛ら庄屋たちは、高城山麓の刑場で磔に処せられ、それぞれ変わり果てた姿で村に帰ってきた。重兵衛らの決死の越訴で救われた村人たちは、かれらの遺体を手厚く葬ったのである。そして、柿の木の下にある重兵衛を供養する五輪塔の傍らにお地蔵さまが祀られ、「柿の木地蔵」と呼ばれて重兵衛らの偉業をいまに伝えている。供養地蔵に寄り添うように立つ柿の木は、樹高十メートル、幹周り2.5メートルで丹波の森協会選定の名木である。
いまも庭先などに柿の木を植えている家は多いが、柿の実を採って食べることは少なくなったようだ。いま食べものは巷に溢れ、ついつい粗末にしがちである。「柿の木地蔵」は、わたしたちの先祖が柿の実で飢えを凌いだ時代があったことを教えてくれるとともに、ムダの多い現代の危うさに警鐘をならしているようでもある。
取材/撮影:2009年7月3日